肥薩線めぐりの旅(その6) SL人吉
5回シリーズで続けてきた「肥薩線めぐりの旅」もこれが最終回

平成28年8月20日 人吉市内観光を終えて今回は人吉駅からスタートする。

人吉駅の構内には、立派な石造りの機関庫がある。肥薩線開業直後の明治44年築である。
下りの「SL人吉」を牽引した58654の休憩場所でもある。
妻面が覆い屋根のためよくわからないが、入口は3連のアーチ型となっている。


SL人吉が推進運転で駅ホームに入線していく。

隣の車庫の長さと列車を比べると、その車庫は、機関車1輌+客車3輌がすっぽり納められるほどの規模をもっていることがわかる。

14:38発熊本行きの“SL人吉”に乗車 (SL人吉号とは言わないことに注意!)
本日のこの上り便は、夏休みの土曜日だけあって満席札止めとなっている。

平成28年8月20日 人吉市内観光を終えて今回は人吉駅からスタートする。

人吉駅の構内には、立派な石造りの機関庫がある。肥薩線開業直後の明治44年築である。
下りの「SL人吉」を牽引した58654の休憩場所でもある。
妻面が覆い屋根のためよくわからないが、入口は3連のアーチ型となっている。


SL人吉が推進運転で駅ホームに入線していく。

隣の車庫の長さと列車を比べると、その車庫は、機関車1輌+客車3輌がすっぽり納められるほどの規模をもっていることがわかる。

14:38発熊本行きの“SL人吉”に乗車 (SL人吉号とは言わないことに注意!)
本日のこの上り便は、夏休みの土曜日だけあって満席札止めとなっている。
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- 平成7年 追憶の西鹿児島駅 (2017/03/19)
- 肥薩線めぐりの旅(その6) SL人吉 (2016/10/16)
- 肥薩線めぐりの旅(その5) 球磨川の温泉地「人吉」 (2016/10/02)
- 肥薩線めぐりの旅(その4) 鉄道の聖地“矢岳越え” (2016/09/25)
- 肥薩線めぐりの旅(その3) 鉄道の町吉松へ (2016/09/17)
- 肥薩線めぐりの旅(その2) はやとの風で霧島温泉へ (2016/09/11)
- 肥薩線めぐりの旅 (その1) いざ薩摩へ (2016/08/28)
- 九州鉄道発祥の地 (2015/07/12)
- 直方市石炭記念館 (2010/09/06)
- 或る小倉日記 (2009/02/12)
- 九州長崎湯けむり号(2) (2008/04/17)
- 九州長崎湯けむり号(1) (2008/04/14)
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肥薩線めぐりの旅(その5) 球磨川の温泉地「人吉」
前回からのつづき

平成28年8月20日13:30 人吉駅からレンタサイクルで相良氏の城下町に飛び出した。
電動アシスト付ママチャリなので楽チンであるが、気温35度快晴の下ではやや辛い。
はやく一っ風呂浴びたいものだ!

レトロの極みといわれた昭和初期の銭湯の様子を今に伝える「新温泉」や

大正築の最古参の「堤温泉」の佇まいを確認した後・・・

熊本県最南端の裁判所をチェックし・・・

裁判所あるところには、検察・法務局の存在もあるので、新築なったお洒落な人吉法務総合庁舎も確認!

人吉城郭のほとりの球磨川支流「胸川」で川遊びする親子連れの姿に、いまだ変わらぬ日本の夏景色を見て嬉しくなる。
因みに城下町人吉球磨を治めた相良(さがら)氏は鎌倉初期から江戸時代の終わりまで700年治世した氏柄である。
球磨での相良家の歴史は、源頼朝の命により遠江国より下向して来ることがはじまる。
以後、戦国の世を乗り切り、豊臣秀吉、徳川氏からも所領を安堵され、明治維新まで命脈を保った。
そのように、相良家は長きにわった所領を守り抜いた全国的には稀有な大名である。
そして、彼の地は明治2年の版籍奉還により人吉県となり、その後八代県に合併され人吉藩は消滅した。
それはさておき・・・人吉城址に近い人吉温泉「元湯」に到着


平成28年8月20日13:30 人吉駅からレンタサイクルで相良氏の城下町に飛び出した。
電動アシスト付ママチャリなので楽チンであるが、気温35度快晴の下ではやや辛い。
はやく一っ風呂浴びたいものだ!

レトロの極みといわれた昭和初期の銭湯の様子を今に伝える「新温泉」や

大正築の最古参の「堤温泉」の佇まいを確認した後・・・

熊本県最南端の裁判所をチェックし・・・

裁判所あるところには、検察・法務局の存在もあるので、新築なったお洒落な人吉法務総合庁舎も確認!

人吉城郭のほとりの球磨川支流「胸川」で川遊びする親子連れの姿に、いまだ変わらぬ日本の夏景色を見て嬉しくなる。
因みに城下町人吉球磨を治めた相良(さがら)氏は鎌倉初期から江戸時代の終わりまで700年治世した氏柄である。
球磨での相良家の歴史は、源頼朝の命により遠江国より下向して来ることがはじまる。
以後、戦国の世を乗り切り、豊臣秀吉、徳川氏からも所領を安堵され、明治維新まで命脈を保った。
そのように、相良家は長きにわった所領を守り抜いた全国的には稀有な大名である。
そして、彼の地は明治2年の版籍奉還により人吉県となり、その後八代県に合併され人吉藩は消滅した。
それはさておき・・・人吉城址に近い人吉温泉「元湯」に到着

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肥薩線めぐりの旅(その4) 鉄道の聖地“矢岳越え”
前回からのつづき

平成28年8月20日(土)肥薩線の吉松から人吉に向けて、いよいよ日本屈指の山線「矢岳越え」に挑む

今回の行程(ブルーのライン)
吉松からは11:49発の「しんぺい2号」に乗車

今までの磨墨が如き「はやとの風」とは異なり、これからは、眞田の赤備えの如き「しんぺい号」である。
この上り列車「しんぺい号」は、鉄道開通当時の鉄道院総裁の後藤新平から名づけられた。
因みに下り列車は「いさぶろう号」である。当時の官鉄を管掌していた逓信大臣・山縣伊三郎からとられた。
その訳は・・・
肥薩線の矢岳第一トンネルは、矢岳駅と真幸駅の間にあり、矢岳駅を出て最初のトンネルである。
明治42年11月21日に開通した、全長2,096メートルのこのトンネルは、肥薩線で最も長いトンネルとして知られている。
また、南側へ向けて25パーミルの下りの片勾配となっている。この勾配と、人里離れた山奥ということもあり、資材搬入の便の困難さ、そして水分の多い凝灰岩のために湧水が多く、工事はかなり難航した。この工事は、現在の青函トンネル工事に匹敵する大工事だったと言われている。
トンネルの人吉側には、当時の逓信大臣・山縣伊三郎の揮毫で「天険若夷」(てんけんじゃくい)、吉松側には、鉄道院総裁・後藤新平の揮毫で「引重致遠」(いんじゅうちえん)の扁額が取り付けられている。これらの言葉を繋げて読むことにより、「天下の難所を平地であるかのように工事したおかげで、重い貨物であっても、遠くまで運ぶことができる」という意味である。
これらの揮毫がなされるほどの国家を挙げての大工事であった訳だ。
この二人にあやかって名づけられたのが「しんぺい号」であり「いさぶろう号」である。
今から思えば、鉄道路線は、険しい山岳コースより海側のルート(現鹿児島本線)のほうが安全安価に仕上がる気がするが、明治時代の陸軍が、海側ルートは外国から狙われて危険であるとして鉄道敷設に強く反対したからこうなった。
現鹿児島本線の開通は肥薩線開通から18年後の昭和2年になる。
明治の軍人は薩摩人が多かったが、幕末の薩英戦争の影に怯えていたのだろうか?

先頭車の3号車からキハ47-8159+キハ47-9082+キハ140-2125の3輌編成である。


強度の点は問題ないのであろうか?と、心配になるほどフリースペース部分が大胆にカットされている。

「はやとの風」と異なりスタンディングタイプのフリースペースとなっている。


平成28年8月20日(土)肥薩線の吉松から人吉に向けて、いよいよ日本屈指の山線「矢岳越え」に挑む

今回の行程(ブルーのライン)
吉松からは11:49発の「しんぺい2号」に乗車

今までの磨墨が如き「はやとの風」とは異なり、これからは、眞田の赤備えの如き「しんぺい号」である。
この上り列車「しんぺい号」は、鉄道開通当時の鉄道院総裁の後藤新平から名づけられた。
因みに下り列車は「いさぶろう号」である。当時の官鉄を管掌していた逓信大臣・山縣伊三郎からとられた。
その訳は・・・
肥薩線の矢岳第一トンネルは、矢岳駅と真幸駅の間にあり、矢岳駅を出て最初のトンネルである。
明治42年11月21日に開通した、全長2,096メートルのこのトンネルは、肥薩線で最も長いトンネルとして知られている。
また、南側へ向けて25パーミルの下りの片勾配となっている。この勾配と、人里離れた山奥ということもあり、資材搬入の便の困難さ、そして水分の多い凝灰岩のために湧水が多く、工事はかなり難航した。この工事は、現在の青函トンネル工事に匹敵する大工事だったと言われている。
トンネルの人吉側には、当時の逓信大臣・山縣伊三郎の揮毫で「天険若夷」(てんけんじゃくい)、吉松側には、鉄道院総裁・後藤新平の揮毫で「引重致遠」(いんじゅうちえん)の扁額が取り付けられている。これらの言葉を繋げて読むことにより、「天下の難所を平地であるかのように工事したおかげで、重い貨物であっても、遠くまで運ぶことができる」という意味である。
これらの揮毫がなされるほどの国家を挙げての大工事であった訳だ。
この二人にあやかって名づけられたのが「しんぺい号」であり「いさぶろう号」である。
今から思えば、鉄道路線は、険しい山岳コースより海側のルート(現鹿児島本線)のほうが安全安価に仕上がる気がするが、明治時代の陸軍が、海側ルートは外国から狙われて危険であるとして鉄道敷設に強く反対したからこうなった。
現鹿児島本線の開通は肥薩線開通から18年後の昭和2年になる。
明治の軍人は薩摩人が多かったが、幕末の薩英戦争の影に怯えていたのだろうか?

先頭車の3号車からキハ47-8159+キハ47-9082+キハ140-2125の3輌編成である。


強度の点は問題ないのであろうか?と、心配になるほどフリースペース部分が大胆にカットされている。

「はやとの風」と異なりスタンディングタイプのフリースペースとなっている。

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