三菱発祥の地・岩崎彌太郎ゆかりの大阪・土佐稲荷
大阪西区西長堀・鰹座橋畔にある土佐稲荷は、江戸の昔から桜の名所である。


もともとは、ここにあった土佐藩蔵屋敷内の稲荷であった。
享保2年(1717年)、藩主山内豊隆が社殿を造営して蔵屋敷の鎮守社とし、一般の参拝を許した。
以来、山内家は参勤交代で大坂を通る際には必ず当社に参拝し、社殿の修繕は藩費で行われた。
明治元年のフランス兵殺傷事件(堺事件)の時、明治政府がフランス公使ロッシュの要求を容れて20名が切腹することになり、29名の者が、この神社で、籤を引いて決め、翌日堺の妙国寺へ護送されたと聞く。
明治初年、土佐藩蔵屋敷とともに当社は岩崎彌太郎に譲り渡された。

(岩崎家旧邸址 昭和12年築)

岩崎彌太郎は当地で事業を営み、三菱の発祥の地となる。
岩崎彌太郎は明治6年にここで三菱を名乗り、翌年本社を東京に移した際に、西長堀の大半の地所・建物を大阪府に譲渡した。
しかし、土佐稲荷だけは引き続き三菱で守ることにし、その後も社殿の造替を行い続けた。


もともとは、ここにあった土佐藩蔵屋敷内の稲荷であった。
享保2年(1717年)、藩主山内豊隆が社殿を造営して蔵屋敷の鎮守社とし、一般の参拝を許した。
以来、山内家は参勤交代で大坂を通る際には必ず当社に参拝し、社殿の修繕は藩費で行われた。
明治元年のフランス兵殺傷事件(堺事件)の時、明治政府がフランス公使ロッシュの要求を容れて20名が切腹することになり、29名の者が、この神社で、籤を引いて決め、翌日堺の妙国寺へ護送されたと聞く。
明治初年、土佐藩蔵屋敷とともに当社は岩崎彌太郎に譲り渡された。

(岩崎家旧邸址 昭和12年築)

岩崎彌太郎は当地で事業を営み、三菱の発祥の地となる。
岩崎彌太郎は明治6年にここで三菱を名乗り、翌年本社を東京に移した際に、西長堀の大半の地所・建物を大阪府に譲渡した。
しかし、土佐稲荷だけは引き続き三菱で守ることにし、その後も社殿の造替を行い続けた。
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