Kodak Signet35と大阪城平成の大修理
- Sun
- 07:00
- ∇愛しき冩眞機 - ├その他の35mm判
平成8年に撮影したネガフイルムを見ていると、カット数は僅かだが、なかなか興味深いものが写っているものがある。
ご紹介するのは、コダック・シグネット35をぶら下げてその年の9月京都に遊んだ後のフイルムを消化するために撮影したものだ。
36枚撮りフイルムだと、少し余るとついつい、こういうことをしてしまうものだ。

因みにこのカメラは今でも手許にあり、現在は娘の愛用カメラとなっている。
ネガフイルムの持つパステル調の画像がお気に入りなのだ!!
レンズキャップは、コダックのフイルムケースのキャップ・・・ともにKodakの製品のためか?何故か大きさがぴったり!

大阪城をフォト散歩したが、天守閣は平成の大修理の真っ最中。
こんなシーンは、この時しか見られないものだ。

建物の形状が複雑なので、足場も普段の建物とは違い、かなり手の込んだものとなっている。
やっぱり何でも撮っておくものだね。

これは府庁横の古い庁舎を利用した国体センター
翌年の平成9年に第52回国体が大阪で開催されるためその準備をする組織が入っていたのだ・・・すっかり忘れてた。
マスコットの “もずやん”はこの時は“モッピー”と呼ばれていた証拠も写っている。
「大阪国体は、第1回大会以来51年ぶり、初めての単独開催。「なみはや国体」をテーマに、「おおさか ふれ愛 夢づく り」のスローガンのもと、府内全市町村が会場となった本大会は、府民総参加で、進取の気風と人情味あふれる大阪らしい大会として開催され、外国籍の社会人 の初参加や環境にやさしい取組をはじめ、38年ぶりとなる薄暮型の開会式、衛星放送を活用した街角放映など様々な取組が行われるとともに、府内各所で府民 と選手との温かな交流の輪が広がる大会となった。また、広範なデモンストレーションとしてのスポーツ行事の実施など、生涯スポーツ社会づくりへの契機とな る大会となった。」・・・らしい。

大阪市営地下鉄の中央線には、このような海遊館のラッピングカーが走っていたんだ。
ああ、懐かしい!


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東洋現像所とトーヨープリント・・・ネガ袋を視る!
今まで撮り貯めた鉄道写真のネガはすべて年月ごとに区分して保管してあるが、昭和57年に撮った写真のネガ現像は、すべて東洋現像所(現:イマジカ)でお願いしているようだ。
どこのDPEに依頼したのか、いくら考えても思い出せないのだが、すっきりと統一されたネガ袋とKodakのエンブレムは美しい。

当時はデジタルカメラなんてものはカケラすら存在しなかったから、撮影したその場では、インスタント写真でもない限りは、撮影結果は分からなかった。
従って、上手く撮れたと思っていても、あくまで自分が思っているだけで確証がない。
そして、帰り道に写真屋さんに撮影済みのフイルムが入ったパトローネを持っていって、現像・焼付けをしてもらうのだが、この出来上がるまでの数日間がなんとも落ち着かない。
出来上がる予定日には真っ先にお店に立ち寄って楽しみにしていたプリントを手にするわけだが、とにかく早く出来上がりがどんな具合か見たいので、ドキドキしながら歩きながらプリントをめくって見ていたことを思い出す。
予想外の出来に満足することもあったが、それより落胆するほうがはるかに多かった(笑)
数日待って、心の中で山のように大きくなっていたその期待感が、ガラガラと音を立てて崩れ去るときの感覚は、またなんともいえない悲しさと諦念感を孕んでいた。
こういう出来上がるまでの数日をワクワクしながら待つとともに出来上がりを見たときの喜び(ほとんどが悲しみ)を味わえるのが銀塩写真のもつ醍醐味ではなかっただろうか。

小西六のサクラカーは、こんなオレンジがコーポレート・カラーで、肌色が美しい発色するなどと言われていた。
またハーフサイズは、フイルム代が節約されて嬉しかったが、逆にプリント代が高くつき、お小遣いを逼迫させたものだった。(この当時カラープリントはE判で1枚50円くらいだったと記憶している。)
“昭和46年の記事「柳生号」より”

どこのDPEに依頼したのか、いくら考えても思い出せないのだが、すっきりと統一されたネガ袋とKodakのエンブレムは美しい。

当時はデジタルカメラなんてものはカケラすら存在しなかったから、撮影したその場では、インスタント写真でもない限りは、撮影結果は分からなかった。
従って、上手く撮れたと思っていても、あくまで自分が思っているだけで確証がない。
そして、帰り道に写真屋さんに撮影済みのフイルムが入ったパトローネを持っていって、現像・焼付けをしてもらうのだが、この出来上がるまでの数日間がなんとも落ち着かない。
出来上がる予定日には真っ先にお店に立ち寄って楽しみにしていたプリントを手にするわけだが、とにかく早く出来上がりがどんな具合か見たいので、ドキドキしながら歩きながらプリントをめくって見ていたことを思い出す。
予想外の出来に満足することもあったが、それより落胆するほうがはるかに多かった(笑)
数日待って、心の中で山のように大きくなっていたその期待感が、ガラガラと音を立てて崩れ去るときの感覚は、またなんともいえない悲しさと諦念感を孕んでいた。
こういう出来上がるまでの数日をワクワクしながら待つとともに出来上がりを見たときの喜び(ほとんどが悲しみ)を味わえるのが銀塩写真のもつ醍醐味ではなかっただろうか。

小西六のサクラカーは、こんなオレンジがコーポレート・カラーで、肌色が美しい発色するなどと言われていた。
またハーフサイズは、フイルム代が節約されて嬉しかったが、逆にプリント代が高くつき、お小遣いを逼迫させたものだった。(この当時カラープリントはE判で1枚50円くらいだったと記憶している。)
“昭和46年の記事「柳生号」より”

フジカラーのネガ袋では百恵ちゃんが微笑んでいたこともあったね♪(過去記事から再掲)
青の発色が綺麗だとされるフジカラーは、ネガ袋も緑が基調だった。
そんなカラーネガフイルムから、今後もその当時の様子などを見て行きたい。
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