大阪中央郵便局は移転しました!
2007年1月に「中央郵便局が危ない!」と題して記事を載せたが、ついにその日がやってきた。

黄金週間前には、移転のポスターが気にはなるものの・・・

いつものように営業していたが・・・



5月9日(土)ふらりと梅田に出たときの中央郵便局の変貌ぶりに驚いた。
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京都府庁旧本館の枝垂桜

烏丸丸太町の西側、釜座通りの北詰にあり、威風堂々とした構えにしてお洒落な雰囲気を湛えている。
3月23日(月曜)から4月5日(日曜)の期間、府庁旧本館中庭の一般公開をするというので、最終日に立ち寄ってみた。

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堺の裁判所が・・・
南海なんば駅への上りエスカレーター附近が、改装工事中でかなり綺麗になりそうだが、改札口の列車のフラップ式表示板は今でも健在だった。

バタバタという音を耳にしながら下を通ると何となく旅情を誘うものだが、最近近隣の鉄道施設からは徐々にその姿を消しつつある。
因みに右下の「お手洗」の貼り紙は、品位を欠くので是非止めて欲しいね。
多くのホームを持つ南海だけに、南海・空港線と高野線とに別れて表示しいてるのも同電鉄の矜持といえよう。
したがって、ここのものは全国でも屈指の大きさを誇るものとなっている。

こちらは高野線のものだ。
ちょうど3段目がパタパタと替わりつつある。
久しぶりにじっくりと眺めてみるが、順番に繰り上がっていくところなんぞは、大人が見ても実に楽しいものだ。
なんばを離れて高野線を進ままし。
堺東駅では、表通りの西口ではなく裏側の東口を使ってみる。

写真左側のちょっと良さげな回廊がそれである・・・。
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景観論争を考えながら鞆の浦を歩く



地元の手作り鯛めし(\450-)と鯛ちくわを、防波堤の上でのんびりといただく。
頭上ではトンビがピーヒョロロローと鳴きながら旋回している。
長閑なりや鞆の浦・・・
昼食の後は、ポカポカ陽気の鞆港をぶらぶらと・・・
港町らしい風情の中、細い道が網の目のように無秩序に伸びている。
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東京から仙台へ

11月下旬のある日、早朝から東京・大手町でお仕事
その後重要書類を少しでも早く郵便に付したいと、東京中央郵便局に向かうが・・・

ガーン!!
営業していない・・・大時計も12時を示したママで・・・全くやる気ナシ!
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大阪府・知事公館一般公開

1923年築というクラシックなものなのだが、外見はそんなに古いものには見えない。

いつもはこんなに静かな風情だか・・・
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「棄景・・・弁天埠頭」
今日は、少し趣向を変えて船舶ネタをひとつ。
現在のレポートなのだが、なぜか昔の出来事のような気がしてならないのだ・・・
JR大阪環状線の弁天町駅北へ徒歩15分のところに弁天埠頭という客船ターミナルがある
・・・いや、あった。
?
昭和の終わりまで、四国・九州への船旅の一大出発ターミナルだった。
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「重要文化財・愛珠(あいしゅ)幼稚園の一般公開」
大阪市立「愛珠幼稚園」といえば、大阪で最も古い幼稚園である。
平成19年12月8日午後の半日だけ一般公開されたので、見学に行った。
今年の6月18日に国の重要文化財の指定を受けたための市民公開デーである。
明治34年築だが、今でも現役の幼稚園として利用している。
利用する園児の安全のため普段は門は固く閉じてあり、関係者以外立ち入り禁止である。
今まで外から眺めるしかなかったが、ようやく内部に立ち入ることが出来た。(念願叶う)
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「現代アート・時の交差点」
先日、大阪・備後町にある国指定重要文化財の日本綿業会館の脇を通ったとき、へんな帽子のオブジェがあるのに気づいた。
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「心斎橋ラルーチェ」
建築で有名なウィリアム・メレル・ヴォーリズ が設計した心斎橋大丸
大阪でも屈指の名建築。アラベスク模様がことのほか美しい。
その大丸が12月から夜間にアールデコ調のイルミネーションがお目見えした。
「心斎橋ラルーチェ」といふらしい。
創業280年記念らしい・・・む?ん・・・下村呉服店 以来の老舗ぢゃ。
(江戸時代の同店模型)
心斎橋筋も同じようにイルミネーション模様・・・クリスマスが近づいてきたネ。
※ご注意 これは、2006年12月の風景であります。


ぽちっとね♪
「しはわうせ?」

大阪市西区の川口に秀麗なアーチ橋の「しはわうせ」がある。
反対側の欄干には「橋和昭」とある
銘板をみると
75年前になるね。
宮本輝の「泥の川」の舞台となったところである。
そんな昭和橋・・・いつまでもこのままであってほしい橋のひとつである。


ぽちっとね♪
「木造の愛珠(あいしゅ)幼稚園」
武家屋敷のような門構えも立派。前の大戦の兵火を浴びなかったのが奇跡といえる。
明治時代の教本とかの資料も随分所有しているようだ。
大阪市立というのもいいね。
とある日、淀屋橋界隈をさすらっていたら・・・
いつもは脇戸ばかり使って出入りして、正門は固く閉ざされたままだったが、その日に限って開いていた!!
むむっこれは貴重かも・・・と思い、写真に撮った。


ぽちっとね♪
☆高射砲住宅

偕行社の跡地で青春をおくった者として、耳をそばだてる言葉
「高射砲住宅」?
戦時中に軍隊が作った高射砲のコンクリートの台座部分を住宅として棲家としている人がいる。
それも大阪の東淀川駅の近くに一つではなく複数存在するらしい。
すごい!!
常々淡路界隈はワンダーランドと思っていたが、
やはり・・・。
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☆しはん志うわく



京都地方法務局の本局は、京都らしいシックなデザインとなっている。
鴨川に掛かる丸太町上る荒神橋の西詰にある。
天気のいい日にこの橋をゆっくり渡るのは気持ちいいね。
この橋の橋柱には「くわう志んはし」とある
(「は」の変体仮名はどうすれば表現できるのだろうか?)
ル至ニ學大國帝都京 東リヨ是


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☆動かない白い客船
☆泉布観



国の重要文化財「泉布観」の一般公開が、3月19日?21日の三日間だけしていたので、最終日に行ってみた。
明治4年築のこの建物。隣の造幣局の貴賓館であったもの。明治大帝も3日間宿泊したことがあるらしい。
すべての周囲を吹きさらしのベランダを配した「ベランダ・コロニアル」様式で建築されたこの建物は、雨風には弱いと思うし、先の大戦もあったし、またすぐ横には国道一号線が走っているなど、建物にとって決して良好な構造・環境とはいえない。
いままで、残っていたことが奇跡かもしれない。
華奢な造りの建物だけに、立ち入りは、スリッパに履き替えることとし、立ち入れる人数は、スリッパの数だけに限るとしている。
したがってスリッパがなくなると、人が出てくるまで玄関口でしばし待機ということになる。
また二階には一度に多くの人が集中しないように注意書きがなされている。
二階が重いと床が抜けるのかなあ?
二階のバルコニーから明治の元勲たちはどんな思いで目の前の大川(旧淀川)を眺めたことだろうか。
☆51階建て分譲マンション
☆大阪ガスビルの不思議なでっぱりの答え
☆大阪ガスビルの不思議なでっぱり
☆愛日小学校



ここは、元大阪市立愛日小学校があったところ。
この『愛日』は、「揚子法言-孝至」の「孝子愛日(孝子日を愛しむ)」からきている言葉。日を惜しむという意味もある。
大阪でもっとも古い小学校(明治5年創立)だった。
東京銀行(只今閉鎖中)の大阪支店の南側に広い敷地であったが、ついに売却。三井住友海上火災が新たな所有者。
只今大型ビルの建築工事中。
御堂筋の中央大通?淀屋橋の間は、昭和30年代の都市計画法改正まであった「百尺制限」の名残が見られる。
高さを31mで整ったスカイライン。高さが整ったすっきりとした直線が美しい。
御堂筋の東側(写真3枚目)は第一勧業銀行・東京建物・日本生命・東京海上・三和銀行・東洋信託銀行と続く。
道幅50mの御堂筋と縦横比5:3の黄金分割になっている。
三井住友海上火災はこの御堂筋の百尺制限を守るというが、御堂筋の東側と違い西側は凹凸多い。
大阪の顔とも言える御堂筋。後世に誇れるような街づくりをしてほしいものだ。
☆バブルの塔の崩壊



御堂筋と本町通りとの交差点にあった商社伊藤萬のイトマンビル。
建築学会賞も受賞した立派なビルであったが、イトマン事件の後、住金物産へ合併による所有権移転した。
そののち積水ハウスに売却された。
そして・・・今。取り壊し。
負の遺産であるバブルの塔の崩壊。
因みに、この二代目イトマンビル(写真二枚目)は昭和51年3月に竣工した。初代ビル(写真三枚目)の解体から3年、当時の総工事費約45億円、赤御影石の外壁、防災設備の先取り設置、自動制御の空調機器、大きく厚いガラス窓等近代建築技法の粋を集めたビルだった。
屋上には近代ビルには似つかわしくない赤い鳥居の「稲荷神社」が祀られていた。この神社は宝塚駅の近く、裏側には武庫川の清流が流れるという風光明媚の地にあった「萬朶荘」という建物の庭園にあったものを遷座したものである。
この「萬朶荘」というのは、そもそもはイトマン二代目社長伊藤萬助個人所有の別荘だった。その後厚生施設として会社資産に移った総桧造りの立派な造作の建物であった。緑に囲まれた広大な庭園があって、大広間から眺める泉水には、赤、白、黄、黒等の色とりどりの錦鯉が遊泳しているという、今再建築せよといっても恐らく不可能と思われる豪華な木造の施設であった。グループや、部・課の懇親会や忘年会などに利用したりして、中堅以上の社員にとっては、馴染み深いなつかしい郷愁を感じる思い出の多い場所だった。
また、イトマンの重要なお得意先を年一回招待のうえ「萬昭会」と称する園遊会をこの「萬朶荘」で開催して、屋台がでたり仮設舞台では余興の漫才や落語等の演芸があったりして、イトマン側は役員をはじめ営業関係者総出でお得意先の首脳を日頃のご愛顧に感謝し、手厚く持て成したものだった。
このように有効に利用されてきた「萬朶荘」も、昭和50年河村政権になってから、再建のため遂に処分せざるをえなくなり手放すことが決定された。ある中堅ゼネコンに売却し、建物は取りこわされ整地されて高級マンションになってしまった。
イトマンの当時の経営陣は「企業の明日への再起のために……」と祖先の霊前にこれを詫び、かつていつの日にか萬朶荘以上のものの奪回を堅く誓ったのだった。
が、・・・結果は、その本体をも失ってしまうことになる。
お稲荷さんにも見放されたというべきか。
☆軍艦 最上



軍艦「最上」のマストと艦橋
明治のそして戦争の遺産が大阪・中之島にひっそり息づいている。
昭和4年、同艦の前マストと後部艦橋を大阪府と大阪市が購入し中之島公園(天神橋西側)に掲揚用ポールにするため、設置したもの。
したがって、昭和10年竣工の重巡洋艦「最上」ではなく、明治43年に建造された通報艦「最上」のもの。
通報艦「最上」は、明治41年に日本で初めてタービンを使った軍艦として竣工し、大正元年に一等砲艦に類別変更され、第一次世界大戦で南支那海や南洋群島の警備で活躍し、シベリア出兵にも警備艦として参加した艦船
経歴
07.3/3三菱重工業長崎造船所起工
08.3/25進水
08.7/29艦長木村剛(兵15宮城)中佐
08.9/16竣工
08.9/25艦長竹内次郎(兵14東京)中佐
09.10/1艦長志摩猛(兵15宮崎)中佐
10.2/16艦長荒西鏡次郎(兵15滋賀)中佐
12.8/28一等砲艦12/1艦長秋沢芳馬(兵18高知)中佐
13.12/1艦長三村錦三郎(兵18岡山)中佐
1914第一次世界大戦時に青島攻略戦に参加しドイツ水雷艇S90を撃沈
15.6/30艦長筑土次郎(兵24大6静岡)中佐
15.9/25艦長関田駒吉(兵24高知)中佐
15.10/17艦長井手元治(兵25佐賀)中佐
16.12/1艦長平岩元雄(兵26愛知)中佐
28.4/1除籍7/6廃艦第3号と仮称
29.1/31廃船
29.6/1売却後大阪で解体
近年まで、ホームレスの格好の棲家として利用されており、ブルーシートで覆われ、妙に生活臭のする哀れな姿であったが、今日では綺麗に整備された?姿に戻っている。
南側では、京阪電車の中之島新線の護岸工事が進行中。