昭和48年7月 無煙化の報ありて (その1柘植)
- Sun
- 07:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和48年
昭和48年7月16日のことだった
少し前に、参宮線が9月末で無煙化になり、SL(C57)が客車列車を牽引する姿も見られなくなるとの報道を得た。
それでは最後の撮影に行かねば・・・となり、この日も愛用のNikonFを携えて天王寺8:27発の急行“かすが”の乗客となる。
このまま亀山まで行ってしまうと時間的にはやや早いので、柘植駅で途中下車して撮影することとした。


途中、通過駅の島ケ原では、待避線で停車中のD51831が牽引する龍華発稲沢行貨物1292列車を追い越す
急行かすがキハ58の車窓からのワンショット (非冷房車ならではの迅速なカメラワーク)
この当時の鉄道ダイヤは、旅客優先だったので、とにかく貨物列車は虐げられていた。
この貨物列車も、駅々で追い越されるものだから、早暁4:35に龍華を出発したが、亀山には12:47到着。
そこから先は、DD51が牽引することになるが、終着駅の稲沢到着は何時になるやら・・・

当時のバイブル「SLダイヤ情報」

当時はこの本を携帯して、往く先々で駅スタンプを押して楽しんでいたようだ。
DISCOVER⇒JAPANの文字も懐かしい
青塗りがD51831牽引の1292列車のダイアである

柘植駅到着の18分後には、京都を9:20に発った草津線経由の鳥羽行急行「志摩1号」がやってきた。
柘植到着10:25
このルートだと京都から鳥羽まで急行で3時間を要する。
しかし、当時、近鉄電車を利用すると、京都から鳥羽まで「近鉄直通特急」で2時間30分。
運賃で両者を比較すると・・・
国鉄 運賃630円 急行料金200円 合計830円
近鉄 運賃740円 特急料金400円 合計1,140円
速くて冷房車指定席の近鉄か、遅いし非冷房だが300円安価な国鉄か・・・
当時の駅弁一つくらいの差である。
さて、どっちを採るかな

(参考)同年5月に購入した柘植駅の中村屋幕ノ内弁当 金300円也

この時間帯の柘植駅は何かと気忙しい
急行志摩と入れ替わるように、D51882牽引の百済行荷物41列車が、奈良を目指して出発した
この列車奈良から先は、機関車が交代しDD51が受け持つ

D51882は、デフレクター(除煙板)に優美な“月と鹿”の飾りつけがあり、関西線では最も人気のあるカマだった。


柘植駐泊所のC58312(亀)

小型の機関車であるC58のボディーに集煙装置と重油タンクを載せるとかなり精悍な容姿となる。
磨き上げられた観光列車の機関車ではなく、煤煙にまみれた働く現役機関車そのものである。

亀山からの貨物783列車の後補機として柘植に9:16到着したのち切り離され、駐泊所にて暫し休息
そののち、信楽線の貨物牽引のため10:26単機回送として草津線を北上していく。

貴生川では転車台がないため、信楽線で正位置に就くには柘植からはバック運転で向かわなくてはならない。
ご苦労様です


柘植駅発11:13の普通列車で亀山に向かうが、まだ改札は始まらない・・・(つづく)


トロリーポール時代の叡電を撮影したモノクロフイルムのカラー化
- Mon
- 11:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和49年
手許に昭和49年4月7日京福電鉄の叡山線・修学院車庫を訪問した際のモノクロネガがある。
昨今のモノクロフイルムをカラー化する技術は目を見張るものがあるので、一つ試みた。
半世紀前のモノクロフイルムをカラーに転換する作業は、とても心弾むものであるが、色彩を強調すると、不自然な感じになるので、控えめの彩色に止めた。

伝説のデナ1型の車体であるが、修学院車庫の道路わきに置いてあるので見学は容易だった。
現役時代に撮影することは叶わなかったが、こうして優美な車体だけでも目にすることができ感激も一入。
窓の上隅に曲線がつけられている意匠が優雅であり、この後の形式となるデナ21型より両端のRが大きく、南海の玉電に似た古典車両の特徴を備えていて極めて魅力的である。
デナ1型は、大正14年の叡山線開業に際して6両が製造されたが、昭和39年にデナ500形導入により全車廃車された。
この車両は、いわゆる“だるまさん”として物置・休憩所として利用されていた

昭和29年から順次2両で1ユニット固定編成化されたと資料にあるが、それを裏付けるように、反対妻面は貫通扉が設けられている。

右側の工事用車両は、訪問した日の僅か2か月前(昭和49年2月)に登場したばかりのデト1000形車両(1001号車)
廃車になった京都市電600形車両の制御器や台車を利用して作られている。
昭和53年には、集電装置をトロリーポールからZパンタに交換されているが、今でも現役である。

車庫内のデナ500形は、阪神電車からの移籍車である。
昭和3年から4年にかけて阪神831形として製造された車輛だが、昭和39年以降叡山線に入線している。
その際には、パンタグラフからトロリーポールに改造されている。

これはまた別の日、昭和50年10月に鞍馬線を訪問した際の写真
当時は2両で1ユニットを編成して運行していたと記憶していたが、こうして単行での運行もあったようだ。

元田中にあった京都市電との交差点
叡電のトロリーポールと市電のビューゲルとが交叉する架線部分は、複雑な構造となっているが、何ともいえない機能美を有していた。

これは、文頭と同じ昭和49年4月7日に八瀬遊園で撮影した「カラー写真」
これが本来の色調である
今となっては、その日は最初からカラーネガを使うべきだったと思うが、当時のカラーネガは高価(20枚撮りが430円でモノクロの約2倍の価格)だったし、そのプリント代も1枚50円と破格だったから、小遣いをもらう中学生の身分としてはモノクロフイルムを使うのが相応だった。
50年前のことなので確証はないが、この日は、修学院車庫でモノクロフイルムが切れたので、八瀬遊園に向かう叡電の車中でフイルムを交換したようだ。その際、八瀬遊園では桜をバックにすると考え、カラーフィルムを奮発したのかもしれない。

しかし、到着した八瀬遊園は小雨交じりで肌寒く、あてにしていたホーム脇の桜は、つぼみ膨らむ程度で、目論見が外れたようだ。


昭和50年 加悦鉄道訪問記(その2)
- Sun
- 07:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和50年-昭和52年
前回からのつづき・・・
昭和50年11月23日雨の丹後半島宮津線
丹後山田から5.7kmの旅程・・・17分間のキハ08旅を堪能したのち加悦駅到着
乗車しての感想だが、自重があるためか、エンジンが脆弱なためか、加速は良いものではなく、ノロノロと動き出す感じだった。
また5.7kmを17分間かかっているが、途中の駅が5か所あるため、その停車時間を加味しても時速24km程度にしかならない。


木製の改札口からホームを見返ると、なんとも滋味深き寸景があった
社章は、親会社である日本冶金工業と同一のもの

なにげに「日本冶金・ナス流し台」の広告があるところが憎い


駅舎は、大正15年の開通以来のもので、当時の殷賑ぶりが偲ばれる
駅舎とは別棟でトイレ棟を配する典型的な駅舎配置である

客車にディーゼルエンジンを載せた変わり者であるが、妻面をみるとそれが強く感じられる。元車はオハ62

向かって左側に、客車をデーゼルカーに改造した苗穂工場のプレートが見える
右側には、日本国有鉄道と盛岡工場のプレートだ
盛岡工場は、元車であるオハ62の製造工場(といっても新造ではなく大正時代の木造客車ナハ22000系を鋼体化させた改造ではあるが・・・)
詳細はこうなっている
大正11年汽車会社製のナハ24972を、昭和30年盛岡工場で鋼体化してオハ62-130とし、さらに昭和37年苗穂工場で気動車改造してキハ40-3とし、昭和41年にはキハ08-3に改番したのだった


もともと決して軽くはないオハ級客車の床下に、このような大きなエンジンを搭載すれば、自重38.9tにもなるのも理解できる。
客車の重量では、「ス」…37.5~42.5トン未満に該当し、スハと呼称されるものにあたる

さてさて、加悦駅の構内をパトロールしなくては・・・

まずは、加悦の社宝ともいうべき2号機関車にご挨拶せねば・・・
この機関車は、明治7年、阪神間の鉄道開業に際してイギリスから輸入された4輌の機関車のうちの1輌である。
鉄道院時代には123号と称していた。

1号機関車は、鉄道博物館で丁重に保管されているが、こちらは青天で、ほぼ現役時代のままの状態である。

雨天で下回りが暗かったためか、ストロボを焚いた

実にシンプルな足回りである。

ヘンな改造がなされていないところが何とも嬉しい

しかし雨に打たれている姿を見るにつけ、このままの状態でいいのか?と、この時は疑問に思ったものだった。
後日譚ではあるが、同機は、平成17年6月9日、その機関車台帳とともに国の重要文化財に指定されたのである。
めでたしめでたし!

後の小型客車は、ハブ2
大正5年に伊賀鉄道で製造されたものを、昭和2年に加悦鉄道が譲り受けた一般客車
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昭和50年 加悦鉄道訪問記(その1)
- Sun
- 15:15
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和50年-昭和52年
昭和50年11月23日親友のイバさんと一緒に加悦(かや)鉄道を訪ねることにした。
基本的に優等列車を使わない鉄道旅なので、あらかじめのタイムテーブルは必須である。

まずは、丹後半島にある加悦鉄道の位置と、そこへの行き方を確認する。
※ 色を付けたラインが今回の経路となる

実家のコレクションの中に同月の大型時刻表があるので、47年ぶりにページを披いて経路を追ってみた。

京都6:46発の列車に乗車する必要がある。
これに乗らないと日帰りは難しくなる。
これは、福知山行のディーゼル列車である。当時の山陰本線は旧型客車列車がまだまだ多かったが、この列車はディーゼル列車なので大いに落胆したものだった。このスジは、2年ほど前は、京都を出発して綾部からは敦賀に抜ける客車921列車だった。
大阪からは福知山線で豊岡を経由して向かう方法もあるが、京都から西舞鶴を経由して行くほうが1時間以上早く到着できることが分かった。
もっとも同じラインをかっ飛ばす京都8:52発の特急あさしお1号に乗れば、もっと早く目的地に着けそうな気がするが、天橋立で追いついて、そこからは丹後山田までは同じ列車に乗ることとなる。
よって、特急料金を浮かせるために2時間早起きをした次第である。
大阪駅から京都に向かう東海道線は、まだ快速のない時間帯なので、大阪発5:45発の普通列車に乗車

もちろん大阪駅からその列車に乗るためには、大阪環状線は始発列車でなければならなかった。
さてさて、京都から予定の列車には乗車できたが、一切写真がない。
よほどディーゼル列車に興味が湧かなかったのであろう。

綾部で乗り換えて舞鶴線を行く。
ここからは敦賀行の客車935列車だった。もともと京都発の921列車だったものが綾部発に短縮されたようだ。

綾部では遅めの朝食として駅弁購入 当日の包み紙がコレクションに残っていた
当時の400円弁当はそこそこ上等な部類だった
西舞鶴には9:35到着

広いヤードを有する西舞鶴駅
左端の客車が乗ってきた935列車、その右側は急行丹波3号
この日のお供は、NikonF +Nikkor-S Auto 5.8cm F1.4+NEOPANSS


豊岡から宮津線を経由してきた急行丹波3号大阪行きを見送る

この列車、天橋立から宮津線を経由して西舞鶴に向かい、そこから折り返して舞鶴線で綾部に行き、さらに山陰本線で福知山まで戻り、折り返して大阪に向かう変わり種のスイッチバック列車だった。
まるで、天橋立や宮津のお客を大阪まで直接届けるのが目的であるかのような運行をする列車だった
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80系臨時快速 “近江路”
- Sun
- 10:07
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和48年
昭和48年5月3日(祝)ぶらりと京都に出掛ける。
国鉄東海道線で、京都駅に到着すると、見慣れない80系6連が停車していた。
前面には“快速 近江路”のトレインマークを掲げている。
この当時でも京阪神で80系を目にすることはなかったので、慌てて一枚収める。


詳細不明な列車なので、帰宅後時刻表で調べた。

下りは、名古屋発8:02、京都着10:35の9431Mの臨時快速列車である。
5月27日までの休日運転とある。

上りは、京都発14:43、名古屋着17:06の9434Mである。
1日1往復だけの臨時列車なので、ホリディ快速という区分けになると思われるが、名古屋・京都を直接結ぶ列車は急行“比叡”くらいだったので、普通列車としては貴重な存在である。
車輛は大垣区のものと思われるが、当時80系は、中央線・飯田線へと移籍が進んでいたので、大垣区の最後の80系編成かもしれない。
また、撮影した同年6月には、使用車輛が80系から113系に置き換えられたとの情報もあるので、この日の撮影は終焉間近ななものの可能性がある。

時刻表を見ていて気付いたが、この当時“SL白鷺号”が京都・姫路間を運行している。
昭和51年9月4日京阪100年号による人身事故が発生するまで、京阪神では、このようなSL運転が度々運転されていた。
この事故以来、京阪神でのSL運転はご法度となり、平成7年8月19日に米原・木ノ本間における“SL北びわこ号”の運転開始まで待たねばならなかった。

下りホームのEF58牽引の荷物列車
当時は頻繁に登場する珍しくもない荷物列車であったが、何故か写真に収めている。
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昭和51年 北海道修学旅行(その3)
- Mon
- 07:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和50年-昭和52年
昭和51年6月16日
白老ではポロトコタンを見学した。
アイヌの民族楽器ムックリを買ったものの、まともに音が出ないと嘆いている同級生に、シンプルな民族楽器がそんなに簡単に奏でられるはずがないと冷笑を投げる。
そんな状況を尻目に、団体行動を早々に離脱して白老駅付近の線路際でカメラを構える。

白老駅を出る堂々6連の臨時列車

室蘭本線の白老駅

上記写真の拡大 昭和9年築の木造駅舎は昭和62年に取壊されることとなる。


特急おおとり

室蘭本線 北吉原駅
面白いデザインの駅舎だなあと思いシャッターを切ったもの。
調べると、昭和40年に隣接する大昭和製紙が、従業員の通勤のため、建設費全額負担で建築したものらしい。
どおりでデザインが国鉄臭くない訳だ!

函館行き普通240列車 長万部付近

函館本線・大沼公園駅
これも大沼公園を散策している団体行動に離反して、国鉄の駅に出向いたものである。

大沼公園駅に停車中の急行「宗谷」
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昭和51年 北海道修学旅行(その2)
- Sat
- 06:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和50年-昭和52年
(前回からのつづき)

昭和51年6月14日 夕食前の休憩時間を利用して、仲間3人で網走湖畔のホテルを抜け出し、近くの石北本線・呼人駅をパトロールする。

網走行普通列車563Dがやってくる時刻に間に合うよう駅に向かったのだ。
タブレット交換をしている一瞬を狙った。


翌朝の網走駅・・・縦書きの駅名板(※)をもつ堂々たる木造駅舎だったが、惜しくも翌年建替えられてしまった。
※縦書きの駅名板には網走刑務所から出所してくる元受刑者が、もう二度と「横道に反れないように」という願いが込められている。

件の網走刑務所はこの橋の向こうにある。残念ながら修学旅行の見学ルートには入っていなかった。

釧網本線・藻琴駅
サビサビの屋根が、いいね!
駅舎の後ろの客車列車は、網走行普通632列車
ここは、開拓民の入植地における交通の便を図るために建設された“東藻琴村営鉄道”の藻琴線が奥地に伸びていたが、昭和40年には全廃された。

こちらは藻琴駅の半分にも満たないサイズの“北浜駅”
鉄道模型のシーナリーとして是非採用したい、実に魅力的な駅舎だ!
白い前栽柵もその魅力を増している。
この駅舎をバスの車窓から見た同級生からは、思わず歓声が上がった。
京阪電車の北浜駅を知るものにとって、その大いなるギャップに驚いたのかもしれない。
「オホーツク海に一番近い駅・海岸まで20メートル」と標語とともに、
愛すべき駅であることは、ここが多くの映画やテレビのロケ地として使われていることからも知れる。
現在もこの駅舎は健在であるが、窓枠等にアルミサッシが用いられ、残念ながら、この写真のような風情はない。
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昭和51年 北海道修学旅行(その1)
- Sun
- 17:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和50年-昭和52年
すでに国鉄のSLは全廃した後であったが、旅行途中に撮影した鉄道写真を改めて見直すと、今とは異なる景色が見受けられるので、そのいくつかをアップしようと思った次第である。
往路は、敦賀から新日本海フェリーで小樽に上陸。

そこからは北海道中央バスの観光バスで道東に向かう。
小樽築港では廃車体のSL群を眺めて、鉄道ファンの友達と、「来るのが少し遅かった!」と嘆いたものだ。

バスの車窓から撮った最初の一枚がこれ。函館本線・大麻駅
現在は札幌近郊の大きな住宅地になっているようだが、この時は寂しい無人駅のように感じた。

711系は、昭和42年に函館本線電化事業と並行して開発された徹底した耐寒耐雪機能を考慮した初の北海道向け国鉄電車である。
これも彼の地でなければお目にかかれない電車となれば、自然とカメラが向けられるというものである。

ED76も本州では見られない電気機関車である。
D型電機というのに中央に補助輪を装備しているため、E型電機のような長い車体をもっている。幌向附近にて

岩見沢の手前にある上幌向(かみほろむい)駅。北海道の駅舎らしい造作だった。
入口のガラスに中央バスの紅白のボディカラーが映り込んでいるのがご愛敬。

旭川に近い神居古潭駅(かむいこたんえき)は昭和44年函館本線の付け替えにより廃止になった駅
「カムイコタン」という北海道らしい響きをもつ駅には強く惹かれるものがあった。
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昭和48年 年末の向日町運転所
- Sat
- 07:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和48年
同一フイルムメーカーのものでもその経年変化の状態は様々で、時にスキャンに骨が折れるものがある。当時の現像薬剤の違いによるものか、適正露出でないものがスキャンしにくいのか・・・不思議に感じつつデジタルスキャンを進めている。
今回はその当時国鉄向日町運転所を訪問したときの様子である。
昭和48年12月13日(木)それも夕刻になってから訪問しているようで、光線状態はあまりよくないようである。
どういう経緯で訪れたのかは思い出せないが、中学校の期末試験の最終日、半ドンで下校するので悪童に誘われパトロールしたのかもしれない。

北陸線の急行列車はさほど珍しくもないので、これはカメラテストに過ぎない。
しかし、よく見ると急行「立山」の初期の大形ヘッドマークをつけてるようだ。
(しかし今になってみれば、何気ない風景も記録しておく重要性はひしひしと感じている。)

いつもブルートレインの牽引機がこのように肩を寄せ合って待機している姿は、見慣れた向日町の景色であった。
EF58が20系を牽引する寝台特急「あかつき」と「彗星」はうんざりするほど運行して、写欲がそがれるほどだった。

その傍らを新型特急の「雷鳥」が軽快に下っていった。
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昭和55年 関東鉄道・常総線・水海道機関区訪問記(後編)
- Sat
- 06:30
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和55年-昭和56年
昭和55年5月現在の常総線は、キハ07の改造車両のほかにも、かなり特異な面々が在籍していた。

これは、キクハ1形の1号。
本来電車であった小田急のクハ1650形を昭和44年に譲受けた車輌である。(H1廃車)

反対側の風情を見てもやはり出自が電車であることは隠せないような感じがしてならない。

これはキクハ4号車である。元小田急クハ1653で1号車と同時期にやってきた。(S59廃車)
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昭和55年 関東鉄道・常総線・水海道機関区訪問記(前編)
- Sat
- 06:30
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和55年-昭和56年
昭和55年当時非電化の最大私鉄といえば、この関東鉄道であった。
その中でも常総線の車輌基地である水海道車庫は最大勢力であり実に多彩な車輌を見ることが出来た。
関東鉄道の他の路線はすでに当ブログにてご紹介済みである。
昭和55年3月31日 旧関東鉄道・筑波線(筑波鉄道・筑波線) →コチラ
昭和55年3月31日 旧関東鉄道・鉾田線(鹿島鉄道・鉾田線) →コチラ
昭和55年5月11日 関東鉄道・竜ヶ崎線 →コチラ
他の路線はこのように随分前に記事にしていたが、常総線だけは何故か掲載するのをためらっていた感がある。
なぜなら車輌紹介に終始しているようで、一部のマニア以外には面白くなかろうと考えていた節があるからだ。
しかし、この路線を紹介しないままでは関東鉄道の全路線を制覇したことにならないし、30年以上経過して改めてネガを見直してみると、現在では見ることができないユニークな顔立ちの車輌が数多く存在する事が確認できた。
思い立ったが吉日・・・遅ればせながら本日記事としてアップすることとした。
昭和55年5月11日快晴の常総線・水海道(みつかいどう)を訪問する。

水海道駅にて キハ614+キハ613+キハ501
非電化区間は、架線ポールがないため駅構内もすっきり広く感じられる。

上記の列車を後方に入れてのワンショット 右は元電車であったキサハ66ほか
さてさて、車庫内を見学に向かう・・・

純木造の機関区事務所にて許可を得て車庫内を撮影して回ることに・・・

今になって思うことだが・・・こういうシーンは、知らない間にその姿を消してしまった。

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昭和62年国鉄民営化直前の湖北の鉄道風景
- Wed
- 06:45
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - └昭和60年-昭和64年

彦根駅の連絡橋の上からは、近江鉄道の賑やかな車両たちが確認できるため、訪問毎に要チェックポイントになっている。

右からモユニ11とモユニ10
モユニ10は、昭和3年川崎造船所製の西武鉄道モハ232が前身
地方私鉄では、郵便荷物車は、貴重な存在だったが、3年前の昭和59年1月末をもって鉄道郵便輸送が廃止されたことからこれらの車両は用途を失ない、構内でひがな一日甲羅干という体をなしていた。
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かに三昧の湯村温泉へ
- Fri
- 06:30
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - └昭和60年-昭和64年
年に2回あった職場の慰安旅行で、今回は但馬の湯村温泉に行くことに・・・目的は、云わずと知れたる“温泉とカニ”なり。
、

朝の大阪駅のお馴染みさん・・・長野からの夜間急行「ちくま」

新しく登場した特急北近畿3号城崎行きに乗車
大阪駅9:05発である。

クロハ481-301
この当時、普通車とグリーン車との合造車(クロハ)は珍しいものだった。
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東武鉄道・鬼怒川温泉駅
- Sun
- 06:30
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - └昭和60年-昭和64年
その際撮影したリバーサルフイルムがあったのでスキャンしてみた。
しかしスリーブではなくマウントしたものだったため、わずかのスキャンにも随分時間を要してしまった。

さてさて、これは昭和57年に開業した東北新幹線に、ようやく初乗車した際のもの。郡山駅でのワンショット。
思えばJR移行直前のものとなった。
ここより会津観光のツアーバスであちこち観光地をめぐり・・・

整備されたばかりで、これから観光地として名乗りを上げようとする大内宿では、こんなことしたり・・・

・・・ということで、今日のお宿は、磐梯熱海のホテル一力
宿での写真は、今のようなデジタルカメラでないのでほとんど撮っていない。撮っていても人物中心なのでここには掲載できないのだ。
とにかく広く立派な庭園に面した1階客室で、そこから下駄履きで紅葉の盛りに彩られた広い庭園に出られた思い出がある。
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オリエント・エクスプレス '88 (その3)
- Sun
- 00:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - └昭和60年-昭和64年

S63.11.23 大阪駅3番ホームに停車中のオリエント・エクスプレス '88
編成は、EF8167(酒)牽引によるオニ231+スタッフ車+荷物車+食堂車+プルマン+バーサロン車+寝台車×6+マニ502236の13両編成である。



寝台車の連結面
左“CARROZZA CON LETTI”(伊表記)
右“SLEEPING CAR”(英表記)
ステップ扉の楕円窓が微妙に異なる。それぞれ作られた時代が異なることが窺われる。
とにかく・・・ため息が漏れそうな造形美である。
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オリエント・エクスプレス '88 (その2)
- Sun
- 00:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - └昭和60年-昭和64年
昭和63年11月23日の日記から・・・
“来日中のオリエント急行が大阪駅での最後の公開展示をなすことを知り、昔取った杵柄よろしくNikonFを携えて、午前9時過ぎに大阪駅へ。係員に聞けば、午前9時46分下り3番ホームに入線との事・・・”
“ホームにて中高生時代を想いださせる少年達に交じってイベント列車を撮る“
“恥ずかしくもありまた嬉しくもあり。”

“ついにそのときがやってきた!”
“13両編成のオリエント急行の姿が見えたと思うと、たちまち滑るが如く入線してきた。そのさまを引き付けて、さらにひきつけて、その瞬間震える手でシャッターレリーズを押し切った。カシャリ!”
“この瞬間が堪らない。緊張感の高まりと一瞬に賭ける意気込み。これだからこの趣味がやめられない。今日はもう二度と来日することはないであろう同列車を隅々まで愉しまん”


3・4番線ホームは、関係者以外立ち入り禁止なのだ。

これは、当日ホームで貰った「日立オリエント・エクスプレス 観覧記念ガイドブック」である。
これから登場する車輌の説明にはこれがあって助かった・・・四半世紀後に役立つとは・・・なんでも取っておくものである♪
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オリエント・エクスプレス '88 (その1)
- Sun
- 00:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - └昭和60年-昭和64年
フジテレビジョン開局30周年、JRグループ発足一周年記念事業として、フジテレビ・JR東日本主導のもと、各国政府・鉄道各者の協力により、NIOEの車両を利用してパリ→東京間でORIENT EXPRESS'88が運行された。
正式名称は"HITACHIカルチャースペシャル・ORIENT EXPRESS'88"
思えば、あの憧れのオリエント急行の車輌が、シベリア鉄道を経由して極東の島国に渡り、日本全国を走り回るという話を耳にしたのは、どれくらい前のことであったか。
その当時は、日本の国力は絶好調ではあったが、この手の眉唾物は、テツ仲間に多く、また夢のような話をしている趣味人の戯言と耳を貸さなかった。
「そもそも、どうやって運んでくるの?」「レールの幅が違うから理論的に走行できない!」「連結器も全部取り替えるのか?」「だいたい定期運用車輌を貸し出せば、本来の運行に差し障るし・・・」
などの素人でも実現不可能と思っていた夢物語が、数々の難問を全て解決して・・・・ついに実現したのだった。

この日が大阪駅に現れる最終日ということであり、しかも祝日ということもあって、マイカメラのNikonFに望遠や広角レンズを携えて、いそいそと出向く。
「この日を逃すと一生オリエント急行を目にすることはないだろう・・・」という思いをもちながら。
午前9時には大阪駅に到着
オリエント・エクスプレスの到着までには、少し時間があるので、去来する列車を撮影する。
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昭和62年4月1日新会社JR発足
- Tue
- 00:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - └昭和60年-昭和64年

ちょうどその日の朝、ラッキーなことに新幹線出張の日だったので、乗る列車の時刻より随分はやく新大阪駅に向かい、東京発の1番列車を待ち構えた。
新大阪駅の在来線からの乗り換えコンコースには☆JR西日本・東海・・・本日スタート☆の電光掲示の文字が躍る!

デモ列車“ひかり1号”博多行きが新大阪駅に到着したが、100系新幹線のトンガリ鼻に“よろしくJR”のベタシールが貼ってあるだけだった。
これが0系のダンゴ鼻であればもう少し美しいのでは・・・と思ったのは小生だけだっただろうか?

それでも、ホーム上の乗客の受けは上々の様子だ。
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昭和61年11月1日福知山線複線電化開業出発式
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特急の先頭部分は大変な人出だったが、式典を後ろからながめるこの場所は、さほどでもなく小生のような一般人でも立ち入ることが許されていた。


午前8時ちょうど、1番列車として特急“北近畿1号”が出発した。
・・・福知山線が便利になったが、その反面、鉄道ファンとして面白みを失った朝だった。

雪の城崎・西村屋城崎グランドホテルにて
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(明治44年の鉄道地図) 「八鹿」を「やをか」とする興味深い表記も見受けられる。
志賀直哉が訪れた大正2年では、すでに福知山?和田山が開通しているので、山陰線経由で向かったことだろう。
われわれは、このときは姫路経由の特急“はまかぜ”を利用したように記憶している。
泊まった旅館は、温泉街の一番奥にある“西村屋城崎グランドホテル”(現:西村屋ホテル招月庭)である。
ここは、繁華街から遠く離れて近くに見るべきものはないなあ。と思っていたらホテルの非常階段から「絶景」が見えたのだ。

上り特急“あさしお14号”
こうなるとどうもいけない!
部屋に備え置きの時刻表をチェックして、許す限り撮影を試みた。

上り福知山行き普通526列車
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昭和60年 旧友と越中・信濃に遊ぶ
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金沢・富山をめぐり、黒四ルートで長野入りして中央線で帰ってくるというコース。
途中立ち寄る都市で頑張っている同級生を呼び出して、旧友を温めるとともにご当地の案内をしてもらうという作戦である。

これは、出発の朝、大阪駅11番線の西端のホームに電留線があり、そこに留置されていたEF58150

プレートにある「インポート・エキスプレス・大阪」とは、梅田コンテナヤード跡で催されていた、個人輸入推進の展示会のようなものではなかったと記憶しているが、まったく興味がなかったので出向くことはなかった。

金沢駅の風景・・・下り特急“雷鳥13号”
高架を目前にして広い構内のレールが剥がされ、寂しい光景となっていた。奥のほうには43系客車の姿も見える。
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昭和58年はじめての大井川鉄道
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東海道線金谷駅から千頭(せんず)に向かう。

金谷駅・大井川鉄道線

大井川鉄道線の終着駅・千頭駅構内


B6が好きでここで出会えたことに喜びを感じていたが、この車両はこの後ホマレの運命を辿ることとなる。
「昭和51年静態保存に切り替え、千頭駅や金谷駅構内で展示・保存されていたが、平成4年産業考古学会より産業遺産として認められた。そして翌平成5年日本工業大学技術博物館において動態保存されることとなった。」

【略歴】
明治24年 イギリス・ダブス社で製造され、日本鉄道が輸入
昭和 3年 西濃鉄道に移籍
昭和45年 廃車。大井川鉄道が譲渡を受け、日本のSLの動態保存の先駆けとして千頭-川根両国駅間を運転
昭和51年 静態保存に切り替え、千頭駅や金谷駅構内で展示・保存
平成 4年 産業考古学会より産業遺産として認められる
平成 5年 学校法人日本工業大学・技術博物館で動態保存

千頭駅は、昭和30年代風の地方ターミナル駅の雰囲気を色濃く残していて好感が持てる。
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昭和57年晩秋 福知山線寸景
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武田尾駅で特急“まつかぜ”の通過を待って、車中の人となる。

福知山線・三田から3駅北になる藍本駅に降立つ。しかし駅前には、数件の農家が並ぶのみと極めて寂しい。
中心となる集落は、駅から離れたところにあるのだろう。
(この駅も昭和61年の電化工事とともに簡易な駅舎に建替えられた。)

周囲には純然たる農村風景が広がる。 上り快速3422列車・・・場内進行!

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昭和57年 福知山線・武田尾駅界隈をパトロール
- Thu
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この当時は、福知山線の新線は完成しておらず、武庫川にそってクネクネと上流に至る純然たるローカル線だった。

武田尾駅を出発する大阪発米子行き普通723列車

茶色や青色の客車が混ぜこぜ・・・2輌目にはナハフ11?1の姿も

上部の大きなトンネルは、新たな福知山線の経路となる。
隧道開口部には昭和61年11月1日新しい武田尾駅が開設されることになるが、まだ4年も先のことだ。

これは、新線開通後の地図 旧の武田尾駅は、バス停(●)武田尾のところにあった。

日本鉄道旅行地図帳(9号)新潮社より
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昭和59年秋 京都駅1番線ホーム
- Sun
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目的地は、五条壬生川なのだが、京阪五条からバスというラインもあるが、山陰本線・丹波口駅から歩くという選択肢もある。
今回は後者を選択する。

京都駅の山陰線ホームは、東海道線のホームより一層旅情豊かな空間を提供していた。
というのも、W型のトラスに支えられた上屋は、通行するには高すぎる程であり、通路には売店などの障害物が少ないため、非常にゆったりとした空間を旅行者に与えていたからだ。
※もちろん、駅ビルの改築により現在では見ることは出来ない。
(現在では、大阪・交通科学博物館構内でこの骨組みを使って展示スペースが作られているので、今でも実体験できる。)
写真を少し拡大してみよう・・・

この9時08分発の米子行き普通835列車に乗車。たった一駅であるが、山陰線の客車列車に乗れることは嬉しい。
駅弁の販売台車を改造したような臨時出札所が懐かしい。特別特急券・普通急行券という文字が窺える。

(参考)京都駅1番線の山陰線ホームの西端からの風景(S50.5.2)

京都を出発し、梅小路機関区の手前で大きく右にカーヴするが、そこからは、同機関区の様子が一望できる。
この日はC612は元気に黒煙を上げていた。

また目を遠方に転ずれば、新参者のEF62の姿に交じって、寝台特急“出雲”のトレインマークを付けたEF56を見つけることが出来た。

梅小路と分かれると程なくして「丹波口」に到着・・・時刻は9時13分。僅か4分の列車旅である。
ここでこの列車ともお別れ。
※因みにこの普通列車、終着駅の米子には19時19分に到着する。
要するに全区間を乗車すると普通切符だけで10時間に及ぶ客車列車の旅が楽しめるということだ。
(平成のテツ事情から考えれば“パラダイス”のような列車である。)
昭和59年 電化直前の国鉄奈良線訪問
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そして今回の内容は、昭和59年9月21日、電化完成の10日前、同線を訪れた時の様子。

クハ104-501+クモハ105-501
奈良駅構内では“試運転”の表示を掲げた電車の姿が見受けられ、いよいよその時を迎えるという雰囲気が満ち溢れていた。

クハ104-508 + クモハ105-508 + クハ105-5 + クモハ105-512

9時48分発京都行き 636D キハ35-122 + キハ36-31

当時の時刻表をアップしてみた。 縦書き表示も懐かしい♪

電化を前に、最後のお勤めのような哀れな姿を見せるキハ36?31
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昭和59年真夏の昼下り・・・国鉄&近江鉄道貴生川駅
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いきなり出会ったのは、この夏の特別仕立ての“昆虫列車”
カバンの中に常に忍ばせているOLYMPUS?XAをおもむろに取り出してパチリ!
前面バリアをスライドさせることでスイッチONになるのがスマート。コンパクトながら二重像合致式のピントあわせができるのか嬉しい。
(このカメラは、大学時代ほとんど毎日持ち歩いていたもので、仕事に就いてもしばらくは常に携帯していたが・・・今は、稼動されることもなくタンスの肥やし状態となっている。)
この“昆虫列車”の車内には多賀神社の写真や“襟巻きトカゲ”のぬいぐるみが飾ってあるという珍妙な電車である。
正面に足のないテントウ虫を配するのは、ちょっと不気味だ!
(平成の時代からするとラッピング車輌は珍しくもないが、当時はこれでも驚きをもって迎えられた奇抜な車輌なのだ。)
モハ131-クハ1214
これが本来の近江鉄道の電車スタイルである。モハ132+クハ1215か?
これらの車輌は、外観は比較的新しく見えるが、出自を辿れば大正時代の車輌となる。
元車は、西武クハ1203・1204である。いずれも木造ダブルルーフだった車輌である。
モハは1925年(大正14年)汽車会社製造。クハは池袋 - 所沢電化開業にあわせて1922年(大正11年)に製造の梅鉢鉄工所製となっている。
近江鉄道線から跨線橋を渡って国鉄線ホームに移って来る。
当時は国鉄の草津線と信楽線の乗換え駅ナリ。
往時C58の貨物列車を狙って訪問したのが懐かしく思い出される。
たくましい現役の気動車である面構えを見せる信楽行き529列車・・・キハ5826+キハ58651・・・もちろん非冷房車
真夏の熱気を増大しそうなディーゼルのアイドリング音が、気だるく響く昼下がり
あの大事故“信楽高原鐵道列車衝突事故”が発生する7年前の穏やかな姿である。
乗換え客の姿もほとんど見受けられない、長閑そのものの国鉄ローカル線乗り換え駅なり。
草津を経由して京都に戻る。
いつものように奈良線のホームではキハ35がカラカラとアイドリング音を響かせていたが、程なくして非冷房の単に日陰でしかない車輌が、轟音を響かせて出発した。
新幹線ホームとローカル線との妙な対比を楽しめる一角だ。
しかし、この2ヵ月後には奈良線電化完成のために見られなくなる光景でもあった。
昭和58年カラーネガ拾遺集
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わざわざ撮影目的で出かけたものではないので、いい加減なものではあるが、当時の様子が閉じ込められているので、少し記事にしてみた。(いわゆる小ネタ集)

撮影の2カ月前に登場したばかりの京阪6000系 (守口市駅にて)
従来の京阪本線の車輌とは一線を画すデザインを持っていたためか、こうして新車にもカメラを向けていたようだ。
この当時は専ら普通列車としての運用だった。(現在では特急として活躍中)
加山雄三が登場する、ナショナルエアコン“楽園”の広告も懐かしい。

京阪・枚方市駅
地下通路と跨線橋で各ホームをつなぐ地上駅であったが、かなりくたびれた感じが漂う駅だった。

現在(平成22年9月)の様子。駅前のバスターミナルは、そのままだ。
昭和63年5月に京阪本線上り線が高架になったのだが、この高架駅の姿しか記憶にない人にとっては、昔の姿に何を感じるだろうか?

この踏切の北西には、街道筋の石碑があるが、それは今も残されてある。

右 倉治滝・・・交野の倉治にあるこの附近では一番大きな「源氏の滝」のことだろう。
落差約17.5メートル。昔は修験者の修業の場であった。
左 京六里、八幡(やわた)ニ里
この当時本線が高架工事中ではあったが、交野線の高架化は少し遅れた。
交野線ホームに入線する600系(昭和57年夏撮影)
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昭和58年3月湖西・堅田に江若鉄道の遺構を発見!
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昭和58年3月 国鉄・湖西線の堅田駅に立つ
ここ堅田は、琵琶湖畔には浮御堂があり、近江八景のひとつ“堅田落雁 ”として古来よりの名所である。

また東海道線から遠く離れた堅田の風景は、国文学者の大和田建樹により、鉄道唱歌東海道編の43番にも読み込まれている。
堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘
夕くれさむき唐崎の 松には雨のかかるらん
また、堅田は、“かたた”と濁らずに発音する。
そして訪れた年から遡ること14年前の昭和44年までは、ここに「江若鉄道」が走っていたところでもある。

日本鉄道旅行地図帳(第9号・関西2)より
国鉄堅田駅から国道に沿って南下したところには、その遺構の一つが残っていた。

「本堅田」とバスの停留所として利用されているようだが、もとの江若鉄道・堅田駅(大正12年開業・昭和44年廃止)である。

反対側に回ってみると、線路は剥がされているといえ、低いホームがそのまま残っている。
その近くの江若バスの整備場を覗くと、懐かしいボンネットバスが残っていた。

ナンバープレートは取り外され哀れな姿だが、湖西の山岳地区を走り回っていた車輌のようだ。
※この車輛は、昭和55年2月に登録抹消されて、平成4年に福山自動車時計博物館がを引き取り、修復して平成5年9月に再生したものかもしれない。
そうだとすると、平成6年7月より北塩原村から依頼を受けられた磐梯東都バスが毎年春季?秋季に運用している桧原湖周遊レトロバスとして活躍しているものかもね♪

堅田というところは面白いものが残っているなあ♪と感心しながらフォト散策を続けた。
昭和58年“サロンカーなにわ” お披露目展示会
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当時の不爾日記によれば「我、数日前より新聞にて識りたれば、かくも珍しき事、屡なるはあるまじき事なれば、職場より写真機を肩に携えていざ参らむと、正午過ぎより彼のステンショへ馳せ参じたり。」とある。
これは、東京鉄道管理局が豪華列車「サロンエクスプレス東京」を作ったことに対する大阪鉄道管理局が仕立てた対抗車輌である。

梅田の大歩道橋の上から進入の様子を撮ろうとカメラを構えた。
(この頃の歩道橋の上空にはまだまだ広い空間があったのだ。)

EF56に牽引されて、入線してきた。

よく見るとバックの大阪鉄道管理局の正面には「サロンカーなにわ誕生」の垂れ幕が掛かっている。

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