大阪偕行社附属小学校時代の本館・講堂の惜別会
平成8年の年末の頃だったか、母校の慣れ親しだ本館と講堂が建替えされるため、平成9年2月22日にその惜別会をしたいので参加してください。と追手門学院からご案内をいただいた。
古いもの大好き人間としては、万障繰り合わせてでも参加しなくてはと思い、厳寒の最中ではあったが、厚めのオーバーコートを着込んで出かけた。
そして記録データに残すには、必ず超広角レンズが必要ではないかと考え、
LeicaM6+ソ連製ルサール20mmといういで立ちで母校に乗り込んだ。


瀟洒な2階建ての本館は、昭和7年製だった。
2階に増設された会議室では、同窓会組織の山櫻會の会議が開催され、何度か参加させていただいた思い出の場所である。

玄関上に掲げられたこ校章は、“山に桜”だった。
母校の同窓会の「山櫻會」の名称もこれが謂れである。

大阪市都市計画図 和楽路屋製より
その当時はの陸軍施設は地図上では“山形”のMで表示されていたので、母校の出身母体を無言のうちにアピールしている校章であった。


本館のエントラスは、あまり生徒や学生が近寄る場所ではなかったので、記憶に薄いが、写真にとると、右側の受付窓口は、高い位置にあり、来訪者にとっては敷居の高い感じを醸し出している。(写真には窓口は写っていないが、踏み台を設けているところから推して知るべし。)
方位図のような八芒星は、陸軍の五芒星とどういう関係があるのかわからないが、その床面の意匠とともに、重厚な木製扉に威厳を感じる。
2階には校長室があったが、歴代の校長は陸軍の将校が務めていた関係か、校長室にはサーベルを立てかける木製スタンドがあった。
後日談ではあるが、大平洋戦争時に憲兵をしていた人とお話をしていた際に、こんなことをうかがった。
「偕行社の酒保部は、学校の給品部のようなものだったが、そこで購入した軍刀は、すぐに折れるなどの二級品で、全く役に立たなかった」とのこどある。

本館エントランスより南側を望む
隣にあった大阪偕行社の本館と同様に、入口の前には小さな築山が設けてあり、正面から直接内部が見えないような設計がしてあった。

本館1階通路部分・・・いつも薄暗い雰囲気の場所だった。

昭和7年完成当時の写真より


当日配布されたパンフレットと記念の500円テレカ
そもそもこの建物は・・・
大正10年に出来上がった木造洋館の瀟洒な校舎が、昭和5年7月に漏電が原因として一夜にして焼失してしまったことによる建替え事業により出来上がったものだった。
その復興校舎として近代的な鉄筋コンクリート造3階建のものと、同じく鉄筋コンクリート造2階建ての本館を建築することとなった。
これに要する費用は、約30万円といわれ、火災保険金や入学時の保証金で14万円余は補えるが、残りの16万円は寄付に頼るしかなかった。しかし、卒業生や関係者だけでなく一般有志者の援助によりその金員の調達ができた。
この建設資金が、経営母体の偕行社や陸軍財政には一切関係なく調達されたことは、その後、終戦直後の学校存続問題時に大きなプラス要因になるのであった。
昭和6年末には、講堂・屋内体操場と教室が竣工し、本館も昭和7年8月に完成した。施工会社は、大阪・松村組である。
全館スチーム暖房、各教室に電話・ラジオの設備があり当時のモデルスクールという存在だった。
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金沢偕行社の遺構

平成29年2月16日大阪発13:12の特急サンダーバードで金沢を訪れる。
兼六園の近くにある訪問先に出向いたのが午後4時という夕刻であったが、5時過ぎには用件が終わったので、近くにある行きたかった場所を訪問することにした。
旧帝国陸軍の第九師団に属する金沢偕行社の遺構である。
大阪偕行社の跡地を母校にする由縁により、機会があれば全国の存在する偕行社の遺構を行脚している。
過去に、岡山偕行社、善通寺偕行社を訪問したが、ようやく今回は、金沢偕行社を訪問することができた。

夕方も17時を過ぎていたので撮影が厳しいかと思っていたが、周囲の空間が奏功してコントラストを抑えたいい雰囲気で撮影することができた。
護国神社の境内に接する金沢能楽堂の敷地内にそれはあった。

明治31年築 登録有形文化財


意匠を凝らした屋根部分や避雷針も見るべきところと思われる。

残念ながら入館はできなかったが、正面玄関は、奥まったところにあり、両側が区分された部屋になっていることが推察される。


偕行社は、陸軍将校倶楽部としての性格を持つので、館内は広い会合スペースを必要とする。
よって、階段や廊下部分は、広間を相殺しないような配置にする必要がある。
今はなき豊橋偕行社は入口を突出した形状にして2階への階段室を兼ねることにより2階部分を大会議室に使えるようにしていた。

こちらは、正面部分にはそういったスペースはなさそうだ。
余り厚みのない建物かと後ろに回ってみると、少し小振りな後陣部分が現れた。

そして正面の真後ろには扉が配置されている。
実はこの続きに講堂があったが、現在はカットされている。
となれば、正面から建物内部を通ったこの部分に階段室がありここで反転する形で2階に上る構造になっているのであろう。
後陣部分の窓の位置が1偕と2階との間にあることから階段の踊り場部分であると推察できる。

窓下の通気孔には、五芒星が今でも残っていて、これが帝国陸軍の遺構であることを如実に表している。
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平成24年 続・善通寺偕行社を訪ねて
香川県善通寺市は今でも自衛隊の基地があり、戦前までは第11師団の軍都であった。
初代師団長は乃木希典で、その指令部の庁舎は「乃木館」として今でも健在である。

善通寺偕行社は、その指令本部と同様のスタイルを踏襲しながらも、将校親睦機関としての性格から軽快な姿でその5年後に建築されている。
外観は簡明なルネサンス様式で、正面中央にドリス式角柱と三角ペディメントによる車寄せポーチを構え、両側にシンメトリーな棟屋を配し、明治期における陸軍建築の堅実な作風が顕著に表現されている。

煉瓦造布基礎部分の通気穴には五芒星の鉄柵が取り付けてある。
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“出張なんでも鑑定団 in 大阪・上町”公開収録!

9月19日(日)に大阪城のお堀端にある追手門学院の“大阪城スクエア”において“出張なんでも鑑定団 in 大阪・上町”の公開収録があった。
当初は、“in 大阪・追手門”だったが、出演者が学院関係者に限らなかったためか、“in 大阪・上町”となっていた。

事前に観覧希望の申し出をしていたら当籤したので、追手門学院大手前中高の門をくぐった。

何故ここでこのようなTVの公開収録が行われたか不思議であったが、鑑定士団を見て合点がいった。

鑑定士は、おなじみの中島誠之助さんと、京都・思文閣の代表者田中大さん、いろんな骨董の専門家の勝見充男さんの三人の方々。
田中大さんは、追手門大学の出身である。卒業といえないのは、8年間在学したが中退したため。奥様も同大学でみつけられたとか。そのあたりのことは、「追手門学院の履歴書(文化人編)」日経大阪刊に詳しい。
また勝見充男さんは、同大学の客員准教授をしていらっしゃるとか。
またTV東京系のTV大阪が校地に隣接しているということもあるかもしれない。
小生は、追大のことはよく分からないが、とにかくこうしてこの番組の収録が行われることとなった。
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明治大帝と大阪偕行社と追手門学院の関係について
明治紀念標については、以前2回シリーズで記事にした。
この明治紀念標は、明治35年に中之島から大阪偕行社の敷地内に移築されていたが、戦争中の昭和18年3月に供出されその姿を消した。
またその管理母体の大阪偕行社は、陸軍の附属機関であるので、昭和20年の終戦とともに解散となり、その跡地は、現在では大阪偕行社附属小学校の流れをくむ追手門学院大手前中高の校地となっている。

この写真は昭和34年当時のものだが、校門はもとの大阪偕行社のものをそのまま使用している。、大正5年に第四師団の酒保部から移築された門柱であるといわれている。

現在は校舎改築に伴い少し西に移動している。

大正10年の着色写真・・・大阪偕行社正門とある。

校内に「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の処」の石碑がある。
これは同校に明治天皇が行幸されたのではなく、大阪偕行社敷地内にあったものがそのまま承継されているからである。(一番上の写真の中央に写っている。)
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大阪偕行社の明治紀念標(2)
明治35年に、中之島から大阪偕行社の敷地内に移設された明治紀念標だが、その後どのように扱われていたかは詳らかではない。

大手前高等女学校(現府立大手前高校)の新築された校舎の上からみた風景。
三角地の明治紀念標がはっきりと見える。
紀念標のあたりから大阪城を見れば、現存する最古級の乾櫓のほか、京橋口の楼門と伏見櫓が見えた。

大手前高女の新校舎完成から少し後の大阪府庁完成の航空写真を見ても分かる。
昭和12年、大阪市が観光誘致のために作成した映画「大大阪観光」にも僅かながらその姿が映し出されている。
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大阪偕行社の明治紀念標(1)

母校が所蔵する資料の中に不思議な絵葉書が残っている。
絵葉書下に「大阪偕行社」とある。
大阪偕行社は、陸軍将校の親睦団体であることは分かるのだが、その前に聳える鉄塔は一体何なのか?
調べてみるとこれは「明治紀念標」というものであることが判明したが、それだけではよく分からない。
「記念」ではなく「紀念」というところが何やら一筋縄でない感じを漂わせているし、絵葉書になっているところからすると、それなりに大阪名所ではなかったのか?と推察される。
まず、上記の絵葉書と同様の場所が現在どうなっているのか・・・

歩道橋の中央部分の舳先のようになった三角地がこの紀念標があった場所である。
近づいて見ると、絵葉書の正面入り口部分の礎石が残っている。


左側の門灯礎石の跡である。

右側の門灯礎石は、少し埋まった形になっているが今でも確認できる。

右側の門灯跡から一列に伸びる御影石は、鉄柵の基盤であったものと思われる。
よく見ると鉄柵を切断した跡が今でも少し残っている。
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母校の第4期新校舎竣工式
母校の新校舎落成式
レンガ色の高層棟が新築なったもの。

大阪城のお堀端である大手前の地、昔の城内・三の丸といった地にある。

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「陸軍の境界石」
「校舎取毀しによる惜別会」
東京から帰ってきた翌日(6月23日土曜日)、母校の建物の一部が取り毀しされるというので、
大阪城の堀端にある母校ー追手門学院小学校でその惜別会が催された。
在校生の惜別会は、すでに開催済みなので、今日は、OBと教職員のための惜別会である。
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「岡山偕行社の遺構」
岡山偕行社の遺構が整備されて綺麗になっているということを聞いていたので、先日岡山へ出張した際、立ち寄った。
大きな総合スポーツ公園の中にある。桃太郎アリーナ(しかしこのネーミングはいかがなものか?)に隣接している。
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「シンフォニーホール」
昨夜、母校の同窓会の90周年記念コンサートが大阪・シンフォニーホールを借り切って開催された。
当夜、大フィルを指揮した湯浅卓雄氏が同窓のよしみで実現した。
生徒・学生を総動員してほぼ満席にできたのは、よかったね。
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☆山桜会90周年記念パーティー



母校の同窓会である「山桜会」の90周年記念パーティーが大阪中之島リーガロイヤルホテルであった。
第一部はこれからの母校についての幼稚園・小学校・中高・大学の各学校長および本会会長の出席を求めてのシンポジウム。(結構赤裸々な利害が衝突する意見が聞けました。)
第二部は記念パーティー。
文楽の寿式三番叟のオープニングに始まる。大夫の豊竹咲大夫が同窓のよしみで実現した。
そのあとは、各学年集まってのカラオケパーティー。
同窓会会長が現役の学生服を着ての「高校三年生」を絶唱。
もしもし帽子ぐらいかぶってくださいヨ!!
記録係の私は、写真機を手にあちこち動き回っていたので、予定摂取酒量に満たないありまさだった。
いかがなものか。
☆日銀総裁の講演会



母校の校友会が90周年を迎えるので、3月18日(土)日銀の福井総裁を招聘して記念講演会を開催した。
校友会の副会長が、福井総裁と大阪府立大手前高校の同級生で親交があったことから実現したもの。
雨天にもかかわらず、600人ほどの参加者があった。
われわれスタッフ側は、超大物の来校に神経を尖らせていた。
総裁は、70歳近いのに1時間半ほど立ったまま滔々と「活力ある日本経済の実現に向けて」について講演。
内容は、さておき、
熱狂的な阪神ファンで、携帯の着メロは六甲颪らしい。
「今年の阪神は、」との質問に対して、
「私は、子供の頃阪神タイガース子ども会に入っていて、選手に野球を教えてもらっていた。
甲子園でも野球したことがある。そういう意味では、私は、甲子園球児です。
また、今年の阪神は?と聞かれて、
「あれこれお答えすることはできない。今年も優勝です。」
万雷の拍手!!
ちなみに、講演会の後は、ロイヤルホテルで仲間内で懇親会だったが、
その前に阪神デパートのタイガースコーナーに立ち寄ったらしい。
ワンダフル!!