大阪中央郵便局は移転しました!
2007年1月に「中央郵便局が危ない!」と題して記事を載せたが、ついにその日がやってきた。

黄金週間前には、移転のポスターが気にはなるものの・・・

いつものように営業していたが・・・



5月9日(土)ふらりと梅田に出たときの中央郵便局の変貌ぶりに驚いた。
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堺の裁判所が・・・
久しぶりに堺に出向く。
南海なんば駅への上りエスカレーター附近が、改装工事中でかなり綺麗になりそうだが、改札口の列車のフラップ式表示板は今でも健在だった。

バタバタという音を耳にしながら下を通ると何となく旅情を誘うものだが、最近近隣の鉄道施設からは徐々にその姿を消しつつある。
因みに右下の「お手洗」の貼り紙は、品位を欠くので是非止めて欲しいね。
多くのホームを持つ南海だけに、南海・空港線と高野線とに別れて表示しいてるのも同電鉄の矜持といえよう。
したがって、ここのものは全国でも屈指の大きさを誇るものとなっている。

こちらは高野線のものだ。
ちょうど3段目がパタパタと替わりつつある。
久しぶりにじっくりと眺めてみるが、順番に繰り上がっていくところなんぞは、大人が見ても実に楽しいものだ。
なんばを離れて高野線を進ままし。
堺東駅では、表通りの西口ではなく裏側の東口を使ってみる。

写真左側のちょっと良さげな回廊がそれである・・・。
南海なんば駅への上りエスカレーター附近が、改装工事中でかなり綺麗になりそうだが、改札口の列車のフラップ式表示板は今でも健在だった。

バタバタという音を耳にしながら下を通ると何となく旅情を誘うものだが、最近近隣の鉄道施設からは徐々にその姿を消しつつある。
因みに右下の「お手洗」の貼り紙は、品位を欠くので是非止めて欲しいね。
多くのホームを持つ南海だけに、南海・空港線と高野線とに別れて表示しいてるのも同電鉄の矜持といえよう。
したがって、ここのものは全国でも屈指の大きさを誇るものとなっている。

こちらは高野線のものだ。
ちょうど3段目がパタパタと替わりつつある。
久しぶりにじっくりと眺めてみるが、順番に繰り上がっていくところなんぞは、大人が見ても実に楽しいものだ。
なんばを離れて高野線を進ままし。
堺東駅では、表通りの西口ではなく裏側の東口を使ってみる。

写真左側のちょっと良さげな回廊がそれである・・・。
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東京から仙台へ

11月下旬のある日、早朝から東京・大手町でお仕事
その後重要書類を少しでも早く郵便に付したいと、東京中央郵便局に向かうが・・・

ガーン!!
営業していない・・・大時計も12時を示したママで・・・全くやる気ナシ!
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「棄景・・・弁天埠頭」
今日は、少し趣向を変えて船舶ネタをひとつ。
現在のレポートなのだが、なぜか昔の出来事のような気がしてならないのだ・・・
JR大阪環状線の弁天町駅北へ徒歩15分のところに弁天埠頭という客船ターミナルがある
・・・いや、あった。
?
昭和の終わりまで、四国・九州への船旅の一大出発ターミナルだった。
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「現代アート・時の交差点」
先日、大阪・備後町にある国指定重要文化財の日本綿業会館の脇を通ったとき、へんな帽子のオブジェがあるのに気づいた。
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「しはわうせ?」

大阪市西区の川口に秀麗なアーチ橋の「しはわうせ」がある。
反対側の欄干には「橋和昭」とある
銘板をみると
75年前になるね。
宮本輝の「泥の川」の舞台となったところである。
そんな昭和橋・・・いつまでもこのままであってほしい橋のひとつである。


ぽちっとね♪
☆高射砲住宅

偕行社の跡地で青春をおくった者として、耳をそばだてる言葉
「高射砲住宅」?
戦時中に軍隊が作った高射砲のコンクリートの台座部分を住宅として棲家としている人がいる。
それも大阪の東淀川駅の近くに一つではなく複数存在するらしい。
すごい!!
常々淡路界隈はワンダーランドと思っていたが、
やはり・・・。
http://


☆動かない白い客船
☆51階建て分譲マンション
☆大阪ガスビルの不思議なでっぱりの答え
☆大阪ガスビルの不思議なでっぱり
☆愛日小学校



ここは、元大阪市立愛日小学校があったところ。
この『愛日』は、「揚子法言-孝至」の「孝子愛日(孝子日を愛しむ)」からきている言葉。日を惜しむという意味もある。
大阪でもっとも古い小学校(明治5年創立)だった。
東京銀行(只今閉鎖中)の大阪支店の南側に広い敷地であったが、ついに売却。三井住友海上火災が新たな所有者。
只今大型ビルの建築工事中。
御堂筋の中央大通?淀屋橋の間は、昭和30年代の都市計画法改正まであった「百尺制限」の名残が見られる。
高さを31mで整ったスカイライン。高さが整ったすっきりとした直線が美しい。
御堂筋の東側(写真3枚目)は第一勧業銀行・東京建物・日本生命・東京海上・三和銀行・東洋信託銀行と続く。
道幅50mの御堂筋と縦横比5:3の黄金分割になっている。
三井住友海上火災はこの御堂筋の百尺制限を守るというが、御堂筋の東側と違い西側は凹凸多い。
大阪の顔とも言える御堂筋。後世に誇れるような街づくりをしてほしいものだ。
☆バブルの塔の崩壊



御堂筋と本町通りとの交差点にあった商社伊藤萬のイトマンビル。
建築学会賞も受賞した立派なビルであったが、イトマン事件の後、住金物産へ合併による所有権移転した。
そののち積水ハウスに売却された。
そして・・・今。取り壊し。
負の遺産であるバブルの塔の崩壊。
因みに、この二代目イトマンビル(写真二枚目)は昭和51年3月に竣工した。初代ビル(写真三枚目)の解体から3年、当時の総工事費約45億円、赤御影石の外壁、防災設備の先取り設置、自動制御の空調機器、大きく厚いガラス窓等近代建築技法の粋を集めたビルだった。
屋上には近代ビルには似つかわしくない赤い鳥居の「稲荷神社」が祀られていた。この神社は宝塚駅の近く、裏側には武庫川の清流が流れるという風光明媚の地にあった「萬朶荘」という建物の庭園にあったものを遷座したものである。
この「萬朶荘」というのは、そもそもはイトマン二代目社長伊藤萬助個人所有の別荘だった。その後厚生施設として会社資産に移った総桧造りの立派な造作の建物であった。緑に囲まれた広大な庭園があって、大広間から眺める泉水には、赤、白、黄、黒等の色とりどりの錦鯉が遊泳しているという、今再建築せよといっても恐らく不可能と思われる豪華な木造の施設であった。グループや、部・課の懇親会や忘年会などに利用したりして、中堅以上の社員にとっては、馴染み深いなつかしい郷愁を感じる思い出の多い場所だった。
また、イトマンの重要なお得意先を年一回招待のうえ「萬昭会」と称する園遊会をこの「萬朶荘」で開催して、屋台がでたり仮設舞台では余興の漫才や落語等の演芸があったりして、イトマン側は役員をはじめ営業関係者総出でお得意先の首脳を日頃のご愛顧に感謝し、手厚く持て成したものだった。
このように有効に利用されてきた「萬朶荘」も、昭和50年河村政権になってから、再建のため遂に処分せざるをえなくなり手放すことが決定された。ある中堅ゼネコンに売却し、建物は取りこわされ整地されて高級マンションになってしまった。
イトマンの当時の経営陣は「企業の明日への再起のために……」と祖先の霊前にこれを詫び、かつていつの日にか萬朶荘以上のものの奪回を堅く誓ったのだった。
が、・・・結果は、その本体をも失ってしまうことになる。
お稲荷さんにも見放されたというべきか。