直方市石炭記念館
8月26日福岡県直方市(のおがたし)を訪れた際、JR直方駅の南側にある“直方市石炭記念館”を見学した。
駅から線路に沿って暫く歩くと、多賀神社の参道にその入口の表示があった。

鳥居をくぐって線路を跨ぐと記念館の前に至る。
※鳥居の奥に見えているグリーンの人道跨線橋は、扇形機関庫の転車台のプラットホームに使われていたものとの情報を発見した。そういえばそのままの形をしている。

筑豊炭田は明治の初めから昭和51年までの約100年間に、約8億トンの石炭を算出し、日本の産業発展、近代化に貢献してきた。
筑豊炭鉱が閉山した昭和46年7月、「炭鉱の歴史」を後生に伝えるため、直方市石炭記念館が誕生した。

これは、コッペル32号蒸気機関車
大正14年貝島大之浦炭坑が資材運搬用としてドイツ・コッペル社から輸入した炭鉱専用機関車で、昭和51年8月の閉山まで52年間稼動していた。

この高いところまで、線路にクレーンを設置して持ち上げたのだろうか?
駅から線路に沿って暫く歩くと、多賀神社の参道にその入口の表示があった。

鳥居をくぐって線路を跨ぐと記念館の前に至る。
※鳥居の奥に見えているグリーンの人道跨線橋は、扇形機関庫の転車台のプラットホームに使われていたものとの情報を発見した。そういえばそのままの形をしている。

筑豊炭田は明治の初めから昭和51年までの約100年間に、約8億トンの石炭を算出し、日本の産業発展、近代化に貢献してきた。
筑豊炭鉱が閉山した昭和46年7月、「炭鉱の歴史」を後生に伝えるため、直方市石炭記念館が誕生した。

これは、コッペル32号蒸気機関車
大正14年貝島大之浦炭坑が資材運搬用としてドイツ・コッペル社から輸入した炭鉱専用機関車で、昭和51年8月の閉山まで52年間稼動していた。

この高いところまで、線路にクレーンを設置して持ち上げたのだろうか?
石炭記念館本館は、筑豊石炭鉱業組合直方会議所として明治43年に建てられたもの。
明治18年設立の筑豊石炭鉱業組合は、石炭産業最初の組合併合団体であり、かつ全国同業組合中最古の歴史と伝統をもっている。筑豊石炭鉱業組合直方会議所は、明治42年3月30日の組合総会で建設が決定し、翌43年8月に竣工、常議員会始め各種会議に使用された。

貝島太助、麻生太吉、許斐鷹介ら当時の炭鉱経営者達が、ここで激論を交わしたんだろうね。

大正12年4月には、ここに救護練習所を設置し、救護隊員養成と救命器使用訓練に組織的に取り組みはじめた。この建物はその事務所として用いられていたようだ。



玄関から見たC11-131

救護訓練用の坑道が裏山に伸びているが、そこから少し変わった車輌が覗いている。

圧縮空気式機関車(エアーロコ車)
坑内の石炭運搬用機関車であり、動力が圧縮空気を利用したもの。
確かに爆発の危険性はないだろうが、馬力的には脆弱なものではなかっただろうか・・・?

鯰田炭鉱の坑外運搬用の電気機関車・・・各坑口と選炭場との間を走っていた。人車には鉱員のほかその家族も利用したので住民にとっては生活の足となっていたものだ。
銚子電鉄のデキ3に似ているが、こちらのほうが遥かに小型である。

坑内人車・・・炭坑の斜坑内を鉱員を乗せて採炭現場まで運んだ車輌

記念館の麓には筑豊本線と平成筑豊鉄道線が走っている。(車輛は、平成筑豊鉄道のもの)

帰り道で見つけたうら寂れた雑居ビル。「大真珠」とあるも「大 珠」となっているのも風情満点!
「狸穴(まみあな)」なんてお店の看板が見えるが、麻布じゃないので、この雰囲気だと確かに古狸が出迎えてくれそうだ。

これより平成筑豊鉄道に乗って田川伊田に向う。
明治18年設立の筑豊石炭鉱業組合は、石炭産業最初の組合併合団体であり、かつ全国同業組合中最古の歴史と伝統をもっている。筑豊石炭鉱業組合直方会議所は、明治42年3月30日の組合総会で建設が決定し、翌43年8月に竣工、常議員会始め各種会議に使用された。

貝島太助、麻生太吉、許斐鷹介ら当時の炭鉱経営者達が、ここで激論を交わしたんだろうね。

大正12年4月には、ここに救護練習所を設置し、救護隊員養成と救命器使用訓練に組織的に取り組みはじめた。この建物はその事務所として用いられていたようだ。



玄関から見たC11-131

救護訓練用の坑道が裏山に伸びているが、そこから少し変わった車輌が覗いている。

圧縮空気式機関車(エアーロコ車)
坑内の石炭運搬用機関車であり、動力が圧縮空気を利用したもの。
確かに爆発の危険性はないだろうが、馬力的には脆弱なものではなかっただろうか・・・?

鯰田炭鉱の坑外運搬用の電気機関車・・・各坑口と選炭場との間を走っていた。人車には鉱員のほかその家族も利用したので住民にとっては生活の足となっていたものだ。
銚子電鉄のデキ3に似ているが、こちらのほうが遥かに小型である。

坑内人車・・・炭坑の斜坑内を鉱員を乗せて採炭現場まで運んだ車輌

記念館の麓には筑豊本線と平成筑豊鉄道線が走っている。(車輛は、平成筑豊鉄道のもの)

帰り道で見つけたうら寂れた雑居ビル。「大真珠」とあるも「大 珠」となっているのも風情満点!
「狸穴(まみあな)」なんてお店の看板が見えるが、麻布じゃないので、この雰囲気だと確かに古狸が出迎えてくれそうだ。

これより平成筑豊鉄道に乗って田川伊田に向う。
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Comment
2010.09.08 Wed 00:29 |
1976年まで採炭を続けた貝島炭鉱、新幹線で撮りに行ける蒸気といわれたあのカマがこんなところにいたんですか。
多賀神社へ行く橋、かつてあまたの先輩が撮影したのはここでしたか。
2010.09.08 Wed 10:38 | *なにわさん こんにちは
貝島炭鉱のロコが、「新幹線で撮りに行ける蒸気」といわれていたとは存じませんでした。昭和51年といえば、大学受験体勢に突入していた為、遠方への撮影旅行を控えていた頃ですね。
2010.09.09 Thu 18:37 |
ホントだ。ちょっと背が高いのと、菱形パンタグラフが載っていたりするけれど、デキ3に似た形をしていますね!
確かデキ3も、昔は宇部の炭鉱で使われていたと聞いたことがあります。
- #-
- うたに
- URL
2010.09.09 Thu 23:03 | *うたにさん デキ3も炭坑出身だったんですね。
デキ3が炭坑出身とは不覚にも知りませんでした。調べるとドイツ・アルゲマイネ社から輸入された後、山口県宇部の沖ノ山炭坑の専用線(沖ノ山旧鉱 - 新沖山)で運用されたとあります。軌道幅は異なるものの、道理でよく姿が似ているはずだわ♪ガッテン!
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