炭坑節発祥の地・田川石炭記念公園訪問
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- ∇鐵道ほとがら帖/平成編 - ├平成22年
田川伊田駅の改札口から駅の反対側に出ると、小高い丘があり、そこは田川石炭記念公園となっていた。
そこで最初に見つけたもの・・・炭坑節発祥の地

正調・炭坑節
香春岳から 見下ろせば 伊田の立坑が 真正面
12時下がりの サマちゃんが ケージにもたれて 思案顔 サノヨイヨイ
ひとやま ふたやま みやま越え 奥に咲いたる 八重つばき
なんぼ色よく 咲いたとて サマちゃんが 通わにゃ 仇の花 サノヨイヨイ
月が出た出た 月が出た 三井炭坑の 上に出た
あんまり煙突が 高いので さぞやお月さん 煙たかろ サノヨイヨイ
格子窓から 月がさす サマちゃんの寝顔の 愛らしさ
はずした枕を すけさしょか 思案なかばに 明けの鐘 サノヨイヨイ
音源は、コチラ

これは、三井田川鉱業所伊田竪坑のシンボルともいうべき大煙突の「二本煙突」
高さ45.45メートル
明治41年にドイツの煉瓦を用いてつくられた第一煙突と第ニ煙突。
これは、蒸気動力であった竪坑捲揚機の動力用に燃やした石炭排煙用としてつくられ、当時はボイラーが12基もあったため、常に石炭が焚かれ、日夜の区別なく常に黒煙を吹き上げていた。
また昭和26年竪坑捲揚機の動力が電気に変わってからは、病院や炭住の風呂用として利用していたが、昭和39年3月三井田川炭鉱の閉山と共にその使命を終えた。
炭坑節については、一部の出版物や歌詞カードに誤記(“三井炭坑の上に出た”とすべきところを“三池炭坑の上に出た”とした)があったことから、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱(1997年3月30日閉山)で生まれたという誤解が広がった。また、伊田と後藤寺との間でどちらの炭坑節が元祖かという論争も過熱した。この論争は、伊田が元祖だということで一応は決着がついている。
その決着のポイントは、歌詞中の高い煙突が登場することであり、それがこの大煙突(二本煙突)に他ならないということにあった。

これが大煙突に通じるボイラーで作られた蒸気機関によって動かせれていた第1竪坑櫓。
高さ約23mで、イギリス様式のバックステイ形の鉄製により明治42年完成した。

櫓に取り付けられていた捲揚機により人や炭車を載せて坑内を上下した二段式「ケージ」。エレベータのカゴに該当するもの。
前記の炭坑節にも登場する。
(注)文化庁が平成19年、世界遺産国内暫定リストに登載した「九州・山口の近代化産業遺産群」には、この旧三井田川鉱業所伊田坑第一、第二煙突(通称・二本煙突)と竪坑櫓が含まれている。

炭坑員の住んでいた炭鉱住宅も復元されている。
この中には、「伊吹重蔵」という表札が掛かっている家があるらしい♪

晩年の炭住生活は、土門拳の“筑豊のこどもたち”によりリアリティに語られているので、ここでは割愛。
(同写真集は、写真好き以外の人にも是非一度は見てもらいたい昭和の名作である。)

おお、ようやくキューロクに出遭えた。59684の門デフ付ときている♪
筑豊の立役者に会えたのは嬉しいのだが、ナンバープレートがペチモンなのが悲しい。

ここにも構内電車が展示してあった。先ほど立ち寄った直方の石炭記念館のものに比べ状態は遥かによさそうだ。

明治から昭和への長きに渡りわが国の基幹産業を支えた炭坑の遺跡を感慨深く見学したあとは、田川伊田駅に戻る。

JR日田彦山線の田川伊田駅では小倉行の列車を待つ。

36年前は、後藤寺行きの列車内から撮影した写真は、この辺りからの風景だったのかな?と思い撮影したが、もう少し左側であった様だ。

(昭和49年3月撮影)
何がどうのこうのと言うことは差し控えるが、草生す線路が、今の時代を雄弁に語っていた。

残念ながら、往時を偲ぶものは、ホームの洗面所と上屋くらいしか残っていないようだ。

下りの田川後藤寺行き普通961Dが入線してきた。

上記の列車と対向するように上り小倉行き966列車に乗車する。キハ147である。
15:49に田川伊田を離れた。

日田彦山線の代表する“香春”駅・・・“青春の門”の重要な場面となる処である。

石灰石採取のために平らになった“香春岳”一の岳が左に見える。あと二の岳、三の岳と続く。筑豊を代表する山である。

採銅所駅も名建築のホマレ高いものであったが、対抗列車に阻まれ撮影することは叶わなかった。
とまれかくまれ・・・16:38 無事小倉に到着して本日のパトロールは終了する。

帰りもひかりレ?ルスター574号に乗車する。

車中は、福岡帰りには必ず買う“つまみあご”と焼酎のワンカップ(今回はソバ焼酎「雲海」)
今日パトロールしたところをしみじみと思い起こしながら味わう。

今日のパトロール地は、黄色のラインで示す・・・半日限りのショートトリップといいながら、見るべきもの、考えさせられるもの、捨て難い発見が多々あり、思いのほか紙面を割いてしまった。
退屈な紙面にも拘らず6回に渡っておつきあいいただいた方々には、カタジケナイ。多謝!
そこで最初に見つけたもの・・・炭坑節発祥の地

正調・炭坑節
香春岳から 見下ろせば 伊田の立坑が 真正面
12時下がりの サマちゃんが ケージにもたれて 思案顔 サノヨイヨイ
ひとやま ふたやま みやま越え 奥に咲いたる 八重つばき
なんぼ色よく 咲いたとて サマちゃんが 通わにゃ 仇の花 サノヨイヨイ
月が出た出た 月が出た 三井炭坑の 上に出た
あんまり煙突が 高いので さぞやお月さん 煙たかろ サノヨイヨイ
格子窓から 月がさす サマちゃんの寝顔の 愛らしさ
はずした枕を すけさしょか 思案なかばに 明けの鐘 サノヨイヨイ
音源は、コチラ

これは、三井田川鉱業所伊田竪坑のシンボルともいうべき大煙突の「二本煙突」
高さ45.45メートル
明治41年にドイツの煉瓦を用いてつくられた第一煙突と第ニ煙突。
これは、蒸気動力であった竪坑捲揚機の動力用に燃やした石炭排煙用としてつくられ、当時はボイラーが12基もあったため、常に石炭が焚かれ、日夜の区別なく常に黒煙を吹き上げていた。
また昭和26年竪坑捲揚機の動力が電気に変わってからは、病院や炭住の風呂用として利用していたが、昭和39年3月三井田川炭鉱の閉山と共にその使命を終えた。
炭坑節については、一部の出版物や歌詞カードに誤記(“三井炭坑の上に出た”とすべきところを“三池炭坑の上に出た”とした)があったことから、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱(1997年3月30日閉山)で生まれたという誤解が広がった。また、伊田と後藤寺との間でどちらの炭坑節が元祖かという論争も過熱した。この論争は、伊田が元祖だということで一応は決着がついている。
その決着のポイントは、歌詞中の高い煙突が登場することであり、それがこの大煙突(二本煙突)に他ならないということにあった。

これが大煙突に通じるボイラーで作られた蒸気機関によって動かせれていた第1竪坑櫓。
高さ約23mで、イギリス様式のバックステイ形の鉄製により明治42年完成した。

櫓に取り付けられていた捲揚機により人や炭車を載せて坑内を上下した二段式「ケージ」。エレベータのカゴに該当するもの。
前記の炭坑節にも登場する。
(注)文化庁が平成19年、世界遺産国内暫定リストに登載した「九州・山口の近代化産業遺産群」には、この旧三井田川鉱業所伊田坑第一、第二煙突(通称・二本煙突)と竪坑櫓が含まれている。

炭坑員の住んでいた炭鉱住宅も復元されている。
この中には、「伊吹重蔵」という表札が掛かっている家があるらしい♪

晩年の炭住生活は、土門拳の“筑豊のこどもたち”によりリアリティに語られているので、ここでは割愛。
(同写真集は、写真好き以外の人にも是非一度は見てもらいたい昭和の名作である。)

おお、ようやくキューロクに出遭えた。59684の門デフ付ときている♪
筑豊の立役者に会えたのは嬉しいのだが、ナンバープレートがペチモンなのが悲しい。

ここにも構内電車が展示してあった。先ほど立ち寄った直方の石炭記念館のものに比べ状態は遥かによさそうだ。

明治から昭和への長きに渡りわが国の基幹産業を支えた炭坑の遺跡を感慨深く見学したあとは、田川伊田駅に戻る。

JR日田彦山線の田川伊田駅では小倉行の列車を待つ。

36年前は、後藤寺行きの列車内から撮影した写真は、この辺りからの風景だったのかな?と思い撮影したが、もう少し左側であった様だ。

(昭和49年3月撮影)
何がどうのこうのと言うことは差し控えるが、草生す線路が、今の時代を雄弁に語っていた。

残念ながら、往時を偲ぶものは、ホームの洗面所と上屋くらいしか残っていないようだ。

下りの田川後藤寺行き普通961Dが入線してきた。

上記の列車と対向するように上り小倉行き966列車に乗車する。キハ147である。
15:49に田川伊田を離れた。

日田彦山線の代表する“香春”駅・・・“青春の門”の重要な場面となる処である。

石灰石採取のために平らになった“香春岳”一の岳が左に見える。あと二の岳、三の岳と続く。筑豊を代表する山である。

採銅所駅も名建築のホマレ高いものであったが、対抗列車に阻まれ撮影することは叶わなかった。
とまれかくまれ・・・16:38 無事小倉に到着して本日のパトロールは終了する。

帰りもひかりレ?ルスター574号に乗車する。

車中は、福岡帰りには必ず買う“つまみあご”と焼酎のワンカップ(今回はソバ焼酎「雲海」)
今日パトロールしたところをしみじみと思い起こしながら味わう。

今日のパトロール地は、黄色のラインで示す・・・半日限りのショートトリップといいながら、見るべきもの、考えさせられるもの、捨て難い発見が多々あり、思いのほか紙面を割いてしまった。
退屈な紙面にも拘らず6回に渡っておつきあいいただいた方々には、カタジケナイ。多謝!
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Comment
2010.09.11 Sat 18:21 |
志井公園、もしくは城野で降りて、底からモノレールに載って小倉までやって来るという方法もありましたが、8月末の週末、競馬帰りのお客さんが乗ってきますね(今週から仁川です)。
2010.09.12 Sun 07:35 | なにわさん そうなんです
志井公園でモノレールに乗り換えという選択もあったのですが、日田彦山線が未踏破だったので、このような具合に。
2010.09.13 Mon 14:12 | 筑豊の思い出
筑豊6部作、楽しく、いや興味深く拝読いたしました。
学生時代、乗り鉄ついでに少し歩いたことがありました。宮脇俊三氏の作品に出てくる坑道の崩落に伴い陥没した水田や傾いた建物を確かめに。
30年近く前でもその光景はなんとも侘しいものでした。それが今では更に悲惨な状況に陥っているようで。
筑豊の町が再起できることを祈ってやみません。
- #-
- サットン
- URL
2010.09.14 Tue 07:15 | *サットンさん こんにちは
今回の小旅行で感じたことは、昔の炭鉱町の凋落ぶりは予想以上だったということでした。若い世代が居ないわけではないのですが、活気がないというか、寂しい雰囲気が色濃く漂ってました。
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