かんぽの宿“恵那”に宿泊し、翌朝は“明知鉄道”に初トライ
9月4日 前回からのつづき・・・
炎暑の恵那峡で遊覧船に遊んだ後は、本日のお宿“かんぽの宿 恵那”に向う。
船着場からは裏道を登るとほどなく到着。

回りを見ても一番立派ではないかと思われるホテルだ。 建築費になんぼ使ってるんやろ?

早速チェックインしてお風呂タイム。
ここは、ラジウム温泉が使われているのだが、循環式温泉で塩素臭はするものの無味無臭なので温泉気分は半減だわ。しかしいろんな湯船がありそれなりに楽しめた。
そうして、本日の夕食

野趣に富む“郷土会席”にしてみた。
会員のクーポン券があったので、ワンドリンクがサービス♪

先附けに、名物のコンニャクとともに、へぼ(クロスズメバチなどの蜂の幼虫)の佃煮が出ていた。

まあ小エビの佃煮と思えば食べられなくもないわ。伊那のザザ虫に比べれは何てことはない♪

鯉のから揚げ 五目あん

これは、涼しき風情の秋茄子の焚き合わせ

やっぱり五平餅がでてきた。

最後のデザート
寒天(山岡寒天)がこの地の名物らしい。テングサは海で採れるが、厳しい冬の寒さが寒天造りに適しているようだ。
ご馳走様でした。
余った焼酎ビンは、部屋にもって帰って二次会へ・・・無制限一本勝負と相成る。

翌日も快晴。朝方は静かで、さすが涼しいが、やはり日差しは強そうだ。

1時間に1本のバスに乗って恵那駅に戻る。

明知鉄道の恵那駅(JRの恵那駅とは入口が異なる。)
恵那駅から明知鉄道で明智駅に向うが、何とも非情なことに、バスの到着時刻である9:28の僅か1分前に列車が出てしまうのだ。何と言う連絡の悪さか!
9:27の次は、10:29まで待たねばならない。
観光案内所を訪れる。しかしバス路線はないし、タクシーだと約30分の乗車で代金は6,500円という。
ローカル線の明知鉄道に乗車するものこの旅行の大きな目的であるので、再び冷房の効いたJR恵那の待合室でまた時間をつぶす。
ここで、少し歴史を振り返ってみる。

現在では、明知鉄道は1時間に1本の運転があるが、昭和44年当時は、一日8往復しかなかった。
7時55分の便に乗り遅れると4時間も待たねばならなかったのだ!
そう思えば1時間待なんて何でもない。現代人のせっかちが現れただけだ。

因みに、これが開通直後の昭和9年11月の時刻表・・・昭和44年のものと比べても始発以外は大差ない。

実はこの鉄道、駅にクーラーのないのは珍しくはないが、自動出札機なるものがなく、全て窓口で一枚一枚切符を販売している。

そうして、もちろん、昔懐かしい硬券に入鋏してくれるのだ・・・懐かしさ一杯!
切符の記念撮影したり、ビールをぐだくだ飲んでいるうちに時間は矢の如く過ぎ、乗るべき10:29の列車が入線してきた。

アケチ13号という分かり易い名前の気動車である。

生活の足としても使われているのか、乗客は多い。しかし立ち客が生じるほどではなかった。

枕木が道床に埋もれているような、ローカル色満載の単線をエンジンをふかして進んでいく。
昔の国鉄・明知線の頃は、C12が短い貨車を引いて、喘ぎ喘ぎ明知への勾配を登っていた。


昭和47年当時のC12が牽引する貨物列車のダイヤ・・・なんとものんびりしたものだった。
ただ、1日1往復なので、ファンの脚光を浴びるということはなく、静かに姿を消した。

ついでに昭和36年当時の大井駅(現:恵那駅)
(閑話休題) 旅を続けよう♪
飯沼は、日本で最大斜度の駅・・・何と33パーミルの傾斜地にある。

待合の下部の黄色くペンキが塗られたところをみればその傾斜が理解できるというものだ。


脳天気な案山子とよく似合う“極楽”という駅があった。極々最近の平成20年12月に出来た駅のようだ。
駅名は、駅近くにかつて存在した寺「極楽寺」に由来して決められたらしい。
対向列車との交換駅「岩村」では1機の腕木式信号機が保存されていた。
これも他所ではほとんど見られなくなった。

「花白」では駅前に日帰り温泉施設があるが、利用すると1時間ロスするので、パスすることに。


ようやく本日の目的地終着地の「明智駅」に到着した。
※鉄道名は、「明知鉄道」なのに駅名は「明智駅」というのは合点がいかないが、それには紆余曲折の物語があった。
開通当時の昭和9年から駅名はずっと「明知」であった。明知駅のある町名も「明知」だった。
その後昭和29年7月1日 明知町と静波村が合併して「明智町」となったが、国鉄は昔のままの駅名を踏襲した。
そこで、昭和60年の国鉄から第三セクターへの移譲に際して町名表示に合致する「明智駅」に変更したらしい。
でも鉄道名称は、そのままなのだ。
この疑問が、なかなか解けないので、思い切って明知鉄道に照会してみた。
そうすると、早速資料を送っていただいた。お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。カタジケナイ。
それは、同鉄道資料の「明知鉄道18年のあゆみ」からの抜粋だった。
COLUMN「明知」と「明智」
『社名は、「明知鉄道」、駅名は「明智」となったが、漢字が大変紛らわしい。どうして違っているのだろうか。
明知線が開業した昭和初期は明知町だったので問題は無かった。ところが昭和29年、静波村と合併した際に明智町となった。わざわざ名称を変更したのはなぜか。ホームページ「明知鉄道だいすき」によると、「同一名称をそのまま用いた場合は一方が一方に完全に吸収されるという形になるので新たな名称で合併であることを確認した。明智光秀ゆかりの地ということをPRするため、の二点にある」と推定されている。そのとき「明智線」や「明智駅」に変えようと、国鉄に町がお願いをした。国鉄側は案内表示で「明知」となっているところを「明智」に変更するための費用負担を求めたので結局漢字を変えることができなかったという。明知鉄道になってからは駅名だけ明智にしたが、社名は同じ漢字を引き継いだ。その真相は資料がないため謎に包まれている。 』(赤字は主宰加工)
・・・つまりは、鉄道名称継続の理由は藪の中だった。
(つづく)
炎暑の恵那峡で遊覧船に遊んだ後は、本日のお宿“かんぽの宿 恵那”に向う。
船着場からは裏道を登るとほどなく到着。

回りを見ても一番立派ではないかと思われるホテルだ。 建築費になんぼ使ってるんやろ?

早速チェックインしてお風呂タイム。
ここは、ラジウム温泉が使われているのだが、循環式温泉で塩素臭はするものの無味無臭なので温泉気分は半減だわ。しかしいろんな湯船がありそれなりに楽しめた。
そうして、本日の夕食

野趣に富む“郷土会席”にしてみた。
会員のクーポン券があったので、ワンドリンクがサービス♪

先附けに、名物のコンニャクとともに、へぼ(クロスズメバチなどの蜂の幼虫)の佃煮が出ていた。

まあ小エビの佃煮と思えば食べられなくもないわ。伊那のザザ虫に比べれは何てことはない♪

鯉のから揚げ 五目あん

これは、涼しき風情の秋茄子の焚き合わせ

やっぱり五平餅がでてきた。

最後のデザート
寒天(山岡寒天)がこの地の名物らしい。テングサは海で採れるが、厳しい冬の寒さが寒天造りに適しているようだ。
ご馳走様でした。
余った焼酎ビンは、部屋にもって帰って二次会へ・・・無制限一本勝負と相成る。

翌日も快晴。朝方は静かで、さすが涼しいが、やはり日差しは強そうだ。

1時間に1本のバスに乗って恵那駅に戻る。

明知鉄道の恵那駅(JRの恵那駅とは入口が異なる。)
恵那駅から明知鉄道で明智駅に向うが、何とも非情なことに、バスの到着時刻である9:28の僅か1分前に列車が出てしまうのだ。何と言う連絡の悪さか!
9:27の次は、10:29まで待たねばならない。
観光案内所を訪れる。しかしバス路線はないし、タクシーだと約30分の乗車で代金は6,500円という。
ローカル線の明知鉄道に乗車するものこの旅行の大きな目的であるので、再び冷房の効いたJR恵那の待合室でまた時間をつぶす。
ここで、少し歴史を振り返ってみる。

現在では、明知鉄道は1時間に1本の運転があるが、昭和44年当時は、一日8往復しかなかった。
7時55分の便に乗り遅れると4時間も待たねばならなかったのだ!
そう思えば1時間待なんて何でもない。現代人のせっかちが現れただけだ。

因みに、これが開通直後の昭和9年11月の時刻表・・・昭和44年のものと比べても始発以外は大差ない。

実はこの鉄道、駅にクーラーのないのは珍しくはないが、自動出札機なるものがなく、全て窓口で一枚一枚切符を販売している。

そうして、もちろん、昔懐かしい硬券に入鋏してくれるのだ・・・懐かしさ一杯!
切符の記念撮影したり、ビールをぐだくだ飲んでいるうちに時間は矢の如く過ぎ、乗るべき10:29の列車が入線してきた。

アケチ13号という分かり易い名前の気動車である。

生活の足としても使われているのか、乗客は多い。しかし立ち客が生じるほどではなかった。


枕木が道床に埋もれているような、ローカル色満載の単線をエンジンをふかして進んでいく。
昔の国鉄・明知線の頃は、C12が短い貨車を引いて、喘ぎ喘ぎ明知への勾配を登っていた。


昭和47年当時のC12が牽引する貨物列車のダイヤ・・・なんとものんびりしたものだった。
ただ、1日1往復なので、ファンの脚光を浴びるということはなく、静かに姿を消した。

ついでに昭和36年当時の大井駅(現:恵那駅)
(閑話休題) 旅を続けよう♪
飯沼は、日本で最大斜度の駅・・・何と33パーミルの傾斜地にある。

待合の下部の黄色くペンキが塗られたところをみればその傾斜が理解できるというものだ。


脳天気な案山子とよく似合う“極楽”という駅があった。極々最近の平成20年12月に出来た駅のようだ。
駅名は、駅近くにかつて存在した寺「極楽寺」に由来して決められたらしい。

対向列車との交換駅「岩村」では1機の腕木式信号機が保存されていた。
これも他所ではほとんど見られなくなった。

「花白」では駅前に日帰り温泉施設があるが、利用すると1時間ロスするので、パスすることに。


ようやく本日の目的地終着地の「明智駅」に到着した。
※鉄道名は、「明知鉄道」なのに駅名は「明智駅」というのは合点がいかないが、それには紆余曲折の物語があった。
開通当時の昭和9年から駅名はずっと「明知」であった。明知駅のある町名も「明知」だった。
その後昭和29年7月1日 明知町と静波村が合併して「明智町」となったが、国鉄は昔のままの駅名を踏襲した。
そこで、昭和60年の国鉄から第三セクターへの移譲に際して町名表示に合致する「明智駅」に変更したらしい。
でも鉄道名称は、そのままなのだ。
この疑問が、なかなか解けないので、思い切って明知鉄道に照会してみた。
そうすると、早速資料を送っていただいた。お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。カタジケナイ。
それは、同鉄道資料の「明知鉄道18年のあゆみ」からの抜粋だった。
COLUMN「明知」と「明智」
『社名は、「明知鉄道」、駅名は「明智」となったが、漢字が大変紛らわしい。どうして違っているのだろうか。
明知線が開業した昭和初期は明知町だったので問題は無かった。ところが昭和29年、静波村と合併した際に明智町となった。わざわざ名称を変更したのはなぜか。ホームページ「明知鉄道だいすき」によると、「同一名称をそのまま用いた場合は一方が一方に完全に吸収されるという形になるので新たな名称で合併であることを確認した。明智光秀ゆかりの地ということをPRするため、の二点にある」と推定されている。そのとき「明智線」や「明智駅」に変えようと、国鉄に町がお願いをした。国鉄側は案内表示で「明知」となっているところを「明智」に変更するための費用負担を求めたので結局漢字を変えることができなかったという。明知鉄道になってからは駅名だけ明智にしたが、社名は同じ漢字を引き継いだ。その真相は資料がないため謎に包まれている。 』(赤字は主宰加工)
・・・つまりは、鉄道名称継続の理由は藪の中だった。
(つづく)
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- Tag :
- かんぽの宿
Comment
2010.09.29 Wed 09:46 | やはり!
明知鉄道でしたか!さまざまな集客策は聞きおよんでいますが、大阪からでは手軽にとはいきませんね。私も制覇は先になりそうです。
かんぽの宿立派ですね!いくらで建てて、いくらで売却するのやら気になるところです。郷土会席、ずいぶん濃い内容ですね!
- #-
- サットン
- URL
2010.09.29 Wed 16:34 | *サットンさん 予想どおりでしたか?
こんな不要不急の旅でなければ、こんな盲腸線に突っ込むことはなかったと思います。ここのかんぽの宿は見晴らしが良い事で有名らしいです。郷土料理はここでなければ食べられないものをチョイスしてみました。「へぼ」はレアで出てくると引いてしまいますが、佃煮なのでオヤヂ仲間は皆何も言わずに味わってましたよ。