鉄道施設の“痰壺(たんつぼ)”を考える

思えば、平成4年9月28日の早暁のことだった。

2年ぶりに信州小諸に向かう途上に降りた新大阪駅の12番ホームで、最近トンと目にしないため、てっきり絶滅したと思っていた「痰壷(タンツボ)」を発見した。

1992小諸と新大阪368-11

太いホームの柱のネキに、ちんまりと納まっていた。

それも赤ペンキの工部省マークのついたホーローびきの出自正しき純正品である。



おおっ!と唸り、新幹線の発車時刻を気にしながらも、通行人が少なくなるのを待ってカバンからカメラを取り出し“激写”した。

1992小諸と新大阪372-1

上記写真の部分アップすると、周辺のガラス質がかなり剥げ落ちて時代を感じるものとなっている。


197308国鉄大阪駅492-1

(参考)こちらは、昭和48年8月の大阪駅東口コンコースのもの。

さすが水都の玄関口らしく、重厚な大理石の角柱と対比しても存在感満点にして、華麗なる木製の四足高台付きの特上品である。

そもそも・・・なぜ駅にタンツボがあるのか・・・不思議に感じたので調べてみた。


明治時代の「鉄道法規類抄」という鉄道関係の法律・規則を集めた書籍を披くと、その中に「肺結核予防規則」なる省令があった。

明治末年の統計によれば、肺結核による死者は過去10年の平均で7万3000人という数字となっており、その当時不治の病とされた結核の罹患者を減少するため、日本国政府が人の集まる場所には、結核菌の温床となる唾(つば)・痰(たん)をあちこちに撒き散らかさないよう「痰壺」《条文では「唾壺(ダコ)」と表記されている》の設置を義務付けたものである。

肺結核予防規則(明治37年2月4日内務省令第1号)

第1条 学校、病院、製造所、船舶発著待合所、劇場、寄席、旅店其ノ他地方長官ノ指示スル場所ニハ適当箇数ノ唾壺ヲ配置スヘシ
  警察官署ハ前記配置ノ唾壺不適当ナルカ若ハ其ノ箇数充分ナラスト認ムルトキハ期間ヲ定メテ唾壺ノ変更ヲ命ジ若ハ箇数ヲ指定シテ之ヲ増置セシムルコトヲ得
  前項ノ唾壺ニハ唾痰ノ乾燥飛散ヲ防グ為少量ノ消毒薬液又ハ水ヲ入レ置キ唾壺内ノ唾痰ハ第6条ノ方法ニヨリ消毒スルニアラサレハ投棄スヘカラス

第2条 前条ノ場所ニ於イテハ何人ト雖モ唾壺以外ニ唾痰ヲ咯出スルコトヲ得ス

(省略)

第5条 監獄、官公立ノ学校、病院、養育院、育児院、製造所、官設及私設ノ鉄道停車場、同客車ニ於イテハ其ノ首長ハ本令ノ規定ニ準ジ相当ノ措置ヲ為スヘシ

第6条 消毒方法ハ明治30年5月内務省令第13号ニ依ルヘシ但シ唾痰ヲ消毒スルニハ石炭酸水(20倍)《結晶石炭酸5分、塩酸1分、水94分》ヲ使用スヘシ

第7条 第1条第1項ニ違背シテ唾壺ヲ配置セサル者、警察官署ノ指定シタル期間ニ其ノ命令ヲ履行セサル者、同条第3項及第3条ニ違背シタル者ハ10円以下ノ罰金ニ処ス

第8条 第2条ニ違背シタル者ハ1円95銭以下ノ科料ニ処ス

(省略)


(注)原文縦書。旧字及数字ニ就ヒテハ、主宰ニヨリ新字及あらびあ数字ニ改ムルナリ。 



明治37年2月といえば、遠き日露の戦いで大国ロシアに対して宣戦布告した月であり、極東の小国である日本国にとってはその危急存亡に関わるときであるにもかかわらず、この省令により、駅には痰壺の設置が強制されたのだった。それだけ結核の撲滅は富国強兵の内憂の最重要関心事であった。

現在のノロウイルスの比ではなかったわけだ。


この省令は、そののち昭和の戦後になっても、昭和26年の結核予防法に受け継がれ、平成17年4月1日に結核予防法施行細則第16条が改正されるまで、たん壷の存在が規定されていた。




また肺結核予防規則の第5条にあるように、駅だけでなく客車内にもその設置が義務付けられた。

オハ31形式図-1
オハ31(昭和2年)形式図

戦前の客車には上記部分のように通路の床に丸い穴を開けてその下に痰壺を備え付けていた。(図面上では唾壺と表記してある。)

よく見ると通路の中心線に並んでいるのではなく、千鳥格子に少しずつずれて配置されているのがわかる。


また、右端の洗面所を見て欲しい。

そこの洗面台にも傍らに小さなタンツボが装備されていた。

その理由を考えるに、そもそも現在一般に行われているように、水栓から水をジャバジャバ流しながら顔を洗い、歯を磨き、口で漱いだものをその場で吐き出すことに慣れてしまった現在人では、俄かには理解できないかもしれない。

しかし、その当時一般家庭では、水は水栓をひねると無尽蔵に流れ出るものではなく、井戸や水壺からコトあるたびに洗面器にためて利用するものだったため、その清水が入っている洗面器に口で漱いだものを吐瀉することはありえず、洗面器以外に場所に不浄なものを吐き出すという日本国民の習慣を、当然ながら列車内の洗面所に導入したにすぎないのだ。


ナハ22000
オハ31の前形式である木造客車ナハ22000(大正9年)の車内写真

オハ31の形式図同様に、通路の中心線から僅かに左右にずれてタンツボが点々と設置されているのがうかがえる。


オロ36車内
こちらはオロ36(昭和13年)の様子。

こちらはセンターに綺麗に並んでいる。

床下の車体台枠の仕様の違いが、このあたりに影響しているのではないかと考えられる。


マロネ37喫煙室

また、特異な例としてマロネ38(昭和10年)の喫煙室には、ボックス席の中央に堂々と設置してある。
これは喫煙スペースということから、タンツボ兼灰皿のような使われ方をつれていたのではないかと思われる。


このように上記の省令のもと戦前の客車には標準装備であったが、戦後の改造により床面にタンツボ穴の車輌は今次では見ることはできなくなった。

また、条文の限定解釈の成果なのか、このような装備は客車のみに見られ、電車・気動車には存在しなかった。



平成4年の新大阪でタンツボの姿を見たのが最後、駅構内で再びその姿を見ることはなかった。

今となっては、このような当時の写真か、鉄道博物館などで展示されている模型車輌でそのヨスガを偲ぶのみなり。



以上、新大阪の一枚の写真をもとに鉄道施設におけるタンツボについて少し考えたことを記述してみた。

尾籠な話題にお付き合いいただきカタジケナイ。








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Comment

2012.12.25 Tue 20:19  |  

クリスマス絡みのヤワなネタが多いこの時期にあってなかなか歯応えのある記事でしたね!
何事にも存在理由はあるもんなんですねえ・・・。
しかし、床の穴にホールインワンさせるには熟練の技が必要だったことでしょう。

  • #-
  • サットン
  • URL

2012.12.25 Tue 20:50  |  *サットンさん ありがとうございます。

クリスマスに唾するつもりなど毛頭ないのですが、古いネガから順番にスキャンして記事にしていたら、たまたま日程がこうなったわけです。
朝っぱらからこのネタは、少々ヘビーかもしれませんが、読み込んでいただければその奥深さを感じていただけるものと確信しています。小生もこの一枚の写真がなければこんなに調査したりはしなかったと思います。瑣末なものにも興味を持つということは面白いものです。

2012.12.25 Tue 21:00  |  

数年前に友人と最近は痰壺を見ないねぇ、と話しておりました。
いやしかし、まさか結核予防だったとは知りませんでした…
これは良い勉強になりました。 ありがとうございました。

  • #SFo5/nok
  • Agas
  • URL
  • Edit

2012.12.25 Tue 22:22  |  *Agasさん こんばんは

そうそう、たまにタンツボの話題が友人間で出たりします。私も今回じっくりと勉強させていただきました。しかし驚くほどその画像がないのですよ。それもあって、この写真をアップした次第です。まあとにかく、何でも写真に撮っておくことは大切だということでしょうね。

2012.12.27 Thu 22:50  |  公衆衛生の基本

「工」マーク入りのタンツボは相当年季が入っていますね。客車の床に堂々と壺があった(蓋なし?)のには驚きました。旧客の洗面所には確かにタンツボはありました。2/9.10.11と佐原〜銚子にC61+旧客6両+DE10が走るのでタンツボの痕跡があるかどうか確かめたいと思っています。しかし便の垂れ流しは問題ありでした。

  • #-
  • 京葉帝都
  • URL

2012.12.28 Fri 09:20  |  *京葉帝都さん おはようございます

 今でも昭和30年代くらいまでの客車の洗面台には、タンツボを見ることが出来ますが、それも改修が行われていてなかなか“当り”に出遭うことは難しいようです。
 便の垂れ流し問題については、窓から顔を出していたり、線路際で撮影していた時にシブキを浴びた思い出があります。“黄害”と呼ばれてましたね。1968年頃の鉄ピクでこれに関する論文が掲載されていた記憶があります。当時からやはり問題視されていたようです。

2013.05.13 Mon 22:42  |  写真を私のブログにお借りしたいのですが

初めまして
いきなりコメント申し訳ございません。
実はいま私の周りで「痰壺」という言葉がはやっていますが、実物を見ることが少ないので、できましたら写真を私のブログに貼らせて頂きたいのですがよろしいでしょうか?
一番最初の「エ」マークのものと一番最後の車内痰壺の2枚なんですが・・・。
こちらのブログからお借りしたことも書かせて頂きますので。
なにとぞよろしくお願いします。

2013.05.14 Tue 06:20  |  *らっきょのときちゃんさん はじめまして

拙いブログをご覧いただき、ありがとうございます。今となっては幻となった「タンツボ」は、かなり珍しいものらしく、当ブログでもアクセスの多い記事となっています。
写真の件ですが、商業利用でなければ出典明記の上、どうぞお使いください。またリンクを貼っていただいてもOKです。

  • #UXr/yv2Y
  • FUZZY
  • URL
  • Edit

2013.05.14 Tue 12:16  |  ありがとうございます

ありがとうございました。早速画像お借りしました。
こちらのHPから転載させて頂いたことも表記させていただきました。
どうもありがとうございました。

2013.10.10 Thu 12:19  |  なつかしいですね

私は昔、東急に勤めておりました。
今は定年して悠々自適な生活ですが、新人の頃に痰つぼは散々洗いましたよ。それが嫌で嫌で仕方なかったですねぇ。
ビニール手袋もブラシもなく、冬の冷たい水道と縄をまるめた物で、ピカピカに磨きあげる毎日でした。少しでも汚れが残っていると先輩から鉄拳が飛びましたからね。今では考えられませんね。

  • #8Pq7Ysss
  • やつじい
  • URL
  • Edit

2013.10.10 Thu 23:03  |  *やつじいさん こんばんは

ご覧いただいた上に、貴重な現場のコメントをいたたきありがとうございます。
小生、タンツボは、あちここちで目にしていましたが、その後処理はどうしていたかは未知の領域でした。
このコメントを拝見し、当時の役割分担を知りました。
鉄道開設時も同様だったとは存じますが、現在では考えられないような地道なご苦労の賜物だったのですね。
鉄道利用者を代表して、感謝申し上げます。やつじいさん、ありがとうございました。

  • #UXr/yv2Y
  • fuzzy
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2015.06.15 Mon 14:12  |  

つまり、痰壺はなんなんですか?結局、簡易トイレだったんですね。
大きい方はかなり大変だとは思いますが…。
匂いますし。あなたの考察によると事実みたいなのでびっくりしました。
ありがとうございました。

  • #JalddpaA
  • たんてぼくん
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段段車窓が薄暗くなり、汽車が次第に濃ひ夕闇へ走り込んで行く時に聞く汽笛の響きは、鼻へ抜けたかさ掻きのやうな電氣機關車の聲よりも、蒸氣機關車の複音汽笛が旅情に相應しい。


          


  いつの間にか窓が眞暗になり、窓硝子に響く汽笛の音が、蒸氣機關車C62の複音に變つてゐる。


          
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