阪神淡路大震災による阪神・石屋川車庫の被災レポート(後編)
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- 07:00
- ∇鐵道ほとがら帖/平成編 - ├平成6年-平成7年
平成7年2月12日 石屋川駅から西へ進む

高架の路盤は、支えるべき鉄筋コンクリートが脆弱だったためか、または想定外の震動のためか、ほとんどのところで座屈して見る影がない。

少し高いところから望む。今来た石屋川駅方面と進むべき車庫方面の光景
すでに復旧に向けた前向きな工事が始まっているようにうかがえる。


徳井町と乙女塚を結ぶ県道との交差部分の様子
交差していた高架部分はすでに撤去されているが、県道の西側部分はこの有様で手付かずの状態である。
いずれにせよ、一旦撤去して再築するしかない。その時間と手数を考えると暗澹たる気持ちになる。

しかし、石屋川車庫に到着すると、さらに酷い状態であることが分かった・・・

新旧の赤胴車が、枕を並べて討ち死に状態である。

北側に走る本線“跡”と芦屋川車庫の惨状

上の2枚を繋げると下記のようになる。


車庫を支えていたコンクリート支柱の状態・・・これほどの座屈状態のものは初めて見る。
どれだけの力が加われば、こんなことになるのだろうか!

ここに平成13年1月11日毎日新聞・夕刊の記事がある。震災の日を目前にして当時の様子を掘り起こしたものだ。
この石屋川車庫の当時の様子が記述されているので、そこから抜粋する・・・
“阪神電鉄は、震災直後非常事態対策本部を設置。まず被害状況を把握するため、若い社員で組織する自転車部隊が本線全域に散った。”
“その結果、復旧の大きな難所は高架上に58輌が留置されていた神戸市東灘区の石屋川車庫とわかった。波打つ路盤。その上で傾く車輌。無傷なものはひとつもなかった。北側に走る本線の線路は陥没。検討の結果、58輌すべてを搬出し、車庫全体を更地にして本線を復旧、次いで車庫を新築することとなった。”

“1月25日、搬出作業開始。まず連結部を切り離す。車両1両の総重量は約35トン。そのままではとうてい動かせないため車体と台車を切り離す。クレーンで吊り上げてトレーラーに載せる。2、3輌撤去してはその部分の高架を壊して更地をつくり、そこにクレーンを移動させて、別の車輌に取り掛かる・・・”

“平時なら日常茶飯事の、車体と台車の切り離しは、寒風吹きすさぶ傾いた線路上では命がけの作業だ。一歩間違えば、あちこちに走る亀裂から転落しかねない。時折余震が襲う・・・”

国道43号線の1本北側にある甲南漬本舗の前の道路からトレーラーで運ばれていく。

“震災から2ヶ月余の3月21日車輌搬出が終わった。春がそこまで来ていた。”
果たして、震災により廃車された車輌は41輌であった。内訳、赤胴車(特急・急行用車両)33輌、青胴車(各駅停車用車両)8輌である。

新在家駅方面を望む・・・この惨状の本線を復旧させ、全線開通したのが、震災から僅か半年後の6月26日。
この光景を目の当たりにした者にとっては、予想すらできない驚異的なスピード回復だった。
復旧時、手塚治虫描く不死鳥を用いた神戸復活プレートが先頭車に登場。
この街とともに Hyogo Phoenix Plan の文字が晴やかにして誇らしげである。
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Comment
2014.07.28 Mon 07:07 | 不死鳥阪神
阪神間の鉄道群の中でも、とりわけ阪神の被害が甚大でしたね。おそらく路線直下の断層がやられたのでしょう。
最新型の8000が、車庫上で痛ましい姿を見せていた映像をとてもよく覚えています。アップされた画像を拝見させていただきまして、記憶が鮮やかに蘇りました。
路線や施設に加えて、最新型車輌の多くが使い物にならなくなってしまった阪神の痛手は、計り知れないものだったと思います。
国家の動脈として新幹線と東海道本線の復旧に全力が注がれたのは、止むを得ないことですが、阪神がよくぞあんなにも早く復旧したと、今になっても感激しますね。
近鉄とつながり、未来へとつながった阪神、頑張れと思わず叫んでしまいます。
2014.07.31 Thu 01:35 |
小生は2月の終わりと3月の後半に灘区内でゴミ拾いや雑用を
していました。阪神電車の被害の深刻さはよく覚えています。
遠目に見ると無傷であるような高架線でも近くで見ると
コンクリートブロックが少しだけ陥没していたり、復旧には相当な
手間がかかりそうな様子でした。
- #-
- サッシの父
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2014.08.03 Sun 10:14 | *のりさんこんにちは
阪神電鉄がこのような存廃を賭けた大変な大工事をしていたということも段々記憶の彼方に沈んでいくのでしょうね。歳月は人を待たずといいますが、やはり子孫へ語りついで行くべきだと思います。
- #UXr/yv2Y
- FUZZY
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2014.08.03 Sun 10:20 | サッシの父さん こんにちは
当時は、誰もが多かれすくなかれ被災者の援助活動をしていましたね。阪神淡路大震災では、各鉄道は見事復旧を果たしましたが、東日本大震災では、常磐線が震災+津波+原発の3重苦にさいなまれていて復旧されないままの姿をみてやりきれない思いが募ります。
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