鉄道遺産・阪急千里線神崎川橋梁訪問
- Sun
- 07:00
- ∇鐵道ほとがら帖/平成編 - ├平成23年-平成29年
平成27年5月3日鉄道遺産というべき阪急千里線の神崎川橋梁を訪問した。
理由は次のとおり・・・
明治9年に官営鉄道が大阪・向日町間を開業させたが、そのときの大阪・吹田間は今のルートとは異なっていた。
大阪を出れば、淀川を渡る直前から北東にずれ、今の水道記念館の中を突ききり、現在の阪急・崇禅寺あたりから阪急の路線となり淡路・下新庄を経てJRと立体交差している場所から現在のJRの路線となっていた。
つまり阪急の崇禅寺から吹田の手前までは鉄道黎明期の官営鉄道の路線だったというわけだ。

(吹田市史より)
大正2年に鉄道院が、吹田操車場新設工事により大阪・吹田の路線を現在のものに変更したため、上記の区間は廃止された。
しかし大正10年に北大阪電鉄が、十三~豊津間を開業するに際してそれの払い下げを受けて利用することとなった。
その区間内にある神崎川橋梁の基礎に、今でも鉄道黎明期の遺産が残っていることは知っていたが、高架工事のためにその姿を消そうとしていたため、この際きちんと訪問しておこうと思い立った次第である。
まずは、下新庄駅から北に向かう。


駅を出てから程なく神崎川に到着するが、その手前のレンガつくりの橋脚・・・味わいがあるものではあるが、北大阪電鉄時代のものと思われる。



神崎川橋梁に出た。

堤防の内側の第一橋脚を見る。

川上側は川下側と違い、水の抵抗を少なくするため鋭角になっている。

右の仮橋もほぼ出来上がっている。ほどなく路線の変更工事がなされるであろう。


この橋梁の橋げたを見ると、いろいろな種類が混じってている。

コンクリートやレンガ造りのスマートなものは後年の作であるが、円形の土台を有するものが、その鉄道黎明期の遺産である。
現在でもその4基が現役として使用されている。
明治9年当時はこのレンガ製の円形ウェルの上に100フィートのポニーワーレン トラス橋が13 連があったとされる。
※このポニーワーレン トラス橋は、後日譚がある。
この区間の利用廃止に伴い、大正6年に鉄道院はこの橋を山陽電気鉄道の前身である兵庫電気軌道へ譲渡し、その後昭和62年に引退し、東二見の工場に移転保存されるまで山陽電鉄の舞子跨線橋として利用されていたのだ。

鉄道黎明期の遺産の上を阪急車輌が何食わぬ顔で毎日通り過ごしていく・・・乗客にこのことを知っている人はどれだけいるのだろうか?



神崎川北側から南を望む・・・仮橋への進入部分も出来上がっている。
仮橋への移動が済めば、こちらの橋の取り壊しにかかるだろう。
そうなるとレンガ製の円形ウェルともお別れだ。隠れた鉄道遺産なので脚光を浴びることなく消えていくのだろう。

さらに北にすすむと、線路の下に、小さな水路をまたぐ鴨沢橋梁がある。これはさらに時代が遡り明治7年9月にできたものらしい。

JR東海道線と立体交差する場所に出た。この西側で現在の千里線からJR線へと繋がっていたようだ。
当時の線路跡が道路として一部残ってはいるが、接合部分は杳として知れない。
※鉄道ピクトリアル1959年6月号参照
理由は次のとおり・・・
明治9年に官営鉄道が大阪・向日町間を開業させたが、そのときの大阪・吹田間は今のルートとは異なっていた。
大阪を出れば、淀川を渡る直前から北東にずれ、今の水道記念館の中を突ききり、現在の阪急・崇禅寺あたりから阪急の路線となり淡路・下新庄を経てJRと立体交差している場所から現在のJRの路線となっていた。
つまり阪急の崇禅寺から吹田の手前までは鉄道黎明期の官営鉄道の路線だったというわけだ。

(吹田市史より)
大正2年に鉄道院が、吹田操車場新設工事により大阪・吹田の路線を現在のものに変更したため、上記の区間は廃止された。
しかし大正10年に北大阪電鉄が、十三~豊津間を開業するに際してそれの払い下げを受けて利用することとなった。
その区間内にある神崎川橋梁の基礎に、今でも鉄道黎明期の遺産が残っていることは知っていたが、高架工事のためにその姿を消そうとしていたため、この際きちんと訪問しておこうと思い立った次第である。
まずは、下新庄駅から北に向かう。


駅を出てから程なく神崎川に到着するが、その手前のレンガつくりの橋脚・・・味わいがあるものではあるが、北大阪電鉄時代のものと思われる。



神崎川橋梁に出た。

堤防の内側の第一橋脚を見る。

川上側は川下側と違い、水の抵抗を少なくするため鋭角になっている。

右の仮橋もほぼ出来上がっている。ほどなく路線の変更工事がなされるであろう。


この橋梁の橋げたを見ると、いろいろな種類が混じってている。

コンクリートやレンガ造りのスマートなものは後年の作であるが、円形の土台を有するものが、その鉄道黎明期の遺産である。
現在でもその4基が現役として使用されている。
明治9年当時はこのレンガ製の円形ウェルの上に100フィートのポニーワーレン トラス橋が13 連があったとされる。
※このポニーワーレン トラス橋は、後日譚がある。
この区間の利用廃止に伴い、大正6年に鉄道院はこの橋を山陽電気鉄道の前身である兵庫電気軌道へ譲渡し、その後昭和62年に引退し、東二見の工場に移転保存されるまで山陽電鉄の舞子跨線橋として利用されていたのだ。

鉄道黎明期の遺産の上を阪急車輌が何食わぬ顔で毎日通り過ごしていく・・・乗客にこのことを知っている人はどれだけいるのだろうか?



神崎川北側から南を望む・・・仮橋への進入部分も出来上がっている。
仮橋への移動が済めば、こちらの橋の取り壊しにかかるだろう。
そうなるとレンガ製の円形ウェルともお別れだ。隠れた鉄道遺産なので脚光を浴びることなく消えていくのだろう。

さらに北にすすむと、線路の下に、小さな水路をまたぐ鴨沢橋梁がある。これはさらに時代が遡り明治7年9月にできたものらしい。

JR東海道線と立体交差する場所に出た。この西側で現在の千里線からJR線へと繋がっていたようだ。
当時の線路跡が道路として一部残ってはいるが、接合部分は杳として知れない。
※鉄道ピクトリアル1959年6月号参照
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Comment
2015.06.29 Mon 07:00 | 千里線…
千里線には、なかなか乗車する機会がありません。40年近く前に、沿線の某大学を受験に行った時以来のご無沙汰かもしれません。
関西鉄旅を
してみたくなった関西人です(笑)。
2015.07.08 Wed 07:00 | *のりさん おはようございます。
千里線の沿線には、大学や高校が多く存在しますので、いつも数多くの学生が乗車しています。その中でこの路線は官営鉄道の遺跡であることを知っている人はどれだけいるのでしょうか。関大の鉄道研究部の部員ならば知っているでしょうね・・・笑
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