昭和50年 加悦鉄道訪問記(その2)
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- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和50年-昭和52年
前回からのつづき・・・
昭和50年11月23日雨の丹後半島宮津線
丹後山田から5.7kmの旅程・・・17分間のキハ08旅を堪能したのち加悦駅到着
乗車しての感想だが、自重があるためか、エンジンが脆弱なためか、加速は良いものではなく、ノロノロと動き出す感じだった。
また5.7kmを17分間かかっているが、途中の駅が5か所あるため、その停車時間を加味しても時速24km程度にしかならない。


木製の改札口からホームを見返ると、なんとも滋味深き寸景があった
社章は、親会社である日本冶金工業と同一のもの

なにげに「日本冶金・ナス流し台」の広告があるところが憎い


駅舎は、大正15年の開通以来のもので、当時の殷賑ぶりが偲ばれる
駅舎とは別棟でトイレ棟を配する典型的な駅舎配置である

客車にディーゼルエンジンを載せた変わり者であるが、妻面をみるとそれが強く感じられる。元車はオハ62

向かって左側に、客車をデーゼルカーに改造した苗穂工場のプレートが見える
右側には、日本国有鉄道と盛岡工場のプレートだ
盛岡工場は、元車であるオハ62の製造工場(といっても新造ではなく大正時代の木造客車ナハ22000系を鋼体化させた改造ではあるが・・・)
詳細はこうなっている
大正11年汽車会社製のナハ24972を、昭和30年盛岡工場で鋼体化してオハ62-130とし、さらに昭和37年苗穂工場で気動車改造してキハ40-3とし、昭和41年にはキハ08-3に改番したのだった


もともと決して軽くはないオハ級客車の床下に、このような大きなエンジンを搭載すれば、自重38.9tにもなるのも理解できる。
客車の重量では、「ス」…37.5~42.5トン未満に該当し、スハと呼称されるものにあたる

さてさて、加悦駅の構内をパトロールしなくては・・・

まずは、加悦の社宝ともいうべき2号機関車にご挨拶せねば・・・
この機関車は、明治7年、阪神間の鉄道開業に際してイギリスから輸入された4輌の機関車のうちの1輌である。
鉄道院時代には123号と称していた。

1号機関車は、鉄道博物館で丁重に保管されているが、こちらは青天で、ほぼ現役時代のままの状態である。

雨天で下回りが暗かったためか、ストロボを焚いた

実にシンプルな足回りである。

ヘンな改造がなされていないところが何とも嬉しい

しかし雨に打たれている姿を見るにつけ、このままの状態でいいのか?と、この時は疑問に思ったものだった。
後日譚ではあるが、同機は、平成17年6月9日、その機関車台帳とともに国の重要文化財に指定されたのである。
めでたしめでたし!

後の小型客車は、ハブ2
大正5年に伊賀鉄道で製造されたものを、昭和2年に加悦鉄道が譲り受けた一般客車

1261号機は、大正12年に日本車輌製造で製造された蒸気機関車
もともとは簸上鉄道5号機だったが、昭和18年にこちらに譲渡されたものだ。
簸上鉄道時代には、空気ブレーキシステムが備えられたので、「働く機関車」という面立ちである。
訪問の8年前には休車扱いとなっていた。


4号機関車は、大正10年の川崎造船所兵庫工場製である。長野電鉄の3号機だったもので、昭和9年に譲り受けた。
この機関車は、加悦鉄道に来てから、ニッケル鉱石輸送に備えて空気ブレーキシステムが設置されたため佇まいがすっかり変わった。

古典タンクロコが3台並ぶ様は、なかなかの壮観である。
中央の手洗い場は、もちろんナス製のものであろう・・・

次にいわくつきの客車群を見ていこう

ハ4995は、明治26年の鉄道作業局新橋工場製の木造の二軸客車
昭和3年に加悦鉄道が譲り受けたものだが、その後改造に改造が加えられ、換骨奪胎された客車である。
社章は、二重丸ではなく、加悦鉄道発足当時のものだ。復元時に施されたものと思われる。
詳細はのちほど・・・

ハブ3は、明治22年のドイツ製車輛だ。よって少し日本離れした風情を湛えている
伊賀鉄道から昭和2年に加悦鉄道が譲り受けたもので、大阪万博にも出品されたホマレの客車だ

このハブ3には、ハ4995と異なり、手動のブレーキシステムが装備されている。
機関車からの合図により、車掌が車内のハンドルを回してブレーキを掛けるという塩梅である。
しかし、こんな華奢なブレーキで役に立ったのだろうか? ないよりはマシといったところか・・・
でも松葉スポークが美しいなあ・・・・うっとり

大型のダブルルーフ木造ボギー客車のハ10
2枚の写真をつなげたため、ややいびつなのはお赦しあれ
この当時、木造の二重屋根のボギー車が現存していることが信じられなかった
まさに加悦はパラダイスだ!


加悦駅のホームの片隅にとても気になる木造客車が2台ある。

今では倉庫として使われているようだが、意味ありげでとても気になる。

反対側に回ってみた
実は、この客車は、上記のハ4995の台車の上に乗っていたボディー部分である。台車は貨車のものである。
というのも、ハ4995は、昭和10年に福知山にあった北丹鉄道の工場でこの車体を新製されて、上に載せてハ20となった。
そしてその改造で不要となり倉庫として使われていた、もともとのハ4995の車体部分を、、昭和45年に、再び載せて改造前に復元し、車号も「ハ4995」としたものである。
この復元により昭和10年につくられた車体部分が不要になったので、このように倉庫として使われている次第である。

右の車輛は大正5年梅鉢製作所製の木造客車。
昭和18年に和歌山鉄道から譲渡されたものだが、車長は短くずんぐりむっくりとした車両である。

加悦鉄道を満喫して帰路に就く
再び宮津線を西舞鶴に向けて発つ


途中キユニ11-1に遭遇したので、窓越しにシャッターを切っている

こういうのも楽しい瞬間である

西舞鶴駅の売店で「海の幸弁当」を購入
少し高価であったが、弁当の内容は充実していてとても美味だった
珍しかったのか、青のりでまぶしたマリモのような一品が入っていたことは、今でも憶えている

前回の記事でアップした西舞鶴駅構内と丹後山田駅のモノクロ2枚をカラー着彩してみた

なにやら昭和30年代の映画のワンシーンのようになった・笑


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Comment
2023.07.16 Sun 10:42 |
こんにちは。
貴重なお写真を楽しく拝見させて頂きました。
宮津線の天橋立へ大阪・京都から観光客を運ぶ鉄道の役割は、お写真の当時も今も変わらないのだと思いますが、宮福線がなかった往時には方向転換を繰り返しながらだいぶ遠回りしていたのですね。
西舞鶴駅の今との違い、気動車の特急・急行列車の佇まい、一枚いちまいから感じ取ることができます。
加悦鉄道は、本当に博物館のようだったのですね。
その後の展示も既になく、保有されていた数々は散逸してしまったのでしょうか。
鉄道を営み、畳んだ後も史料を公開し続けたことは素晴らしいと思いながら、やはり残念です。
私のブログからこちらに、リンクを掲載させて頂けますでしょうか。
大変楽しく拝見させて頂いております。
どうぞ、宜しくお願い致します。
2023.07.17 Mon 16:49 | *風旅記さん こんにちは
半世紀近い過去のネガをスキャンしてみました。
本当に当時の加悦鉄道は、失われた世界が眼前に展開して、まさしくパラダイスでしたね。
最近では、クラウドファンディングもしていたようですが、上首尾とはあまりいえるものではなかったようです。
リンクは設定していただいて構いません。
今後ともよろしくお願いします。
- #UXr/yv2Y
- fuzzy
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2023.07.19 Wed 23:30 |
こんばんは。
リンク掲載のご許可、ありがとうございます。
これからも時折拝見させて頂ければと思います。
宜しくお願い致します。
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