オリジナル復元!流電モハ52001
- Sat
- 00:00
- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和55年-昭和56年
前回は、飯田線の流電をご紹介したが・・・今回はそのオリジナルの話。
時は移ろい、昭和56年8月8日。 テツ仲間の誘いがあり、雨の吹田機関区を訪れる。
復元保管している流電モハ52001が見学できるとの報を得たからである。

時は移ろい、昭和56年8月8日。 テツ仲間の誘いがあり、雨の吹田機関区を訪れる。
復元保管している流電モハ52001が見学できるとの報を得たからである。

この車両、1次形なので窓の数が多い。
豊橋で最後に出会った、車庫の外で憩いでいたものが、誕生当初の姿に整備復元されたのである。

月代(さかやき)を青々と剃りあげたお武家様の風情なりなり・・・お見事!!

先日「ライカの旅」で紹介したのも1次形である。

天気は小雨でベストなものではなかったが、原型に復元された流電が保存されたのは、この上にもない喜びである。


前面Rの半分だけが運転室で、あと半分は展望座席であったことがよくわかる。
とくに鉄道模型作成者にとっては、限りない情報の提供である。

これらのHOゲージの4両すべて真鍮バラキットからハンダ付けで組み立て、塗装したもの。
しかし、この車両の塗りわけ作業は、ほんとモデラー泣かせだった。
どうやって色分けしたかを考えれば、窓の数の少ない2次形を選んだわけが分かると思う。
1、全体にベージュの塗装をする。
2、マスキングテープで茶色に塗るところだけを残して覆いつくす。・・・ここが泣ける。窓枠ひとつひとつにマスキングしていくのだ。それも4両分の窓すべて・・・ああ、泣ける。
3、茶色を吹き付ける。
4、またマスキングして屋根のグレーを吹き付ける。前面のカーブの塗り分けがまた難しい・・・ふぅ。
今ではこの流電、佐久間レールパークにも復元されて当時の姿を眼にすることが出来るが、当時、吹田の復元車両が登場するまでは、オリジナル塗装のカラー写真というのが過去一枚くらいしか公表されてなく、それも着色写真だったのでなんとも頼りないものだった。
ゆえに、模型の塗り分けおよび正確な色調を判断するのは、ほんと並々ならぬ苦労を伴う作業だった。
それで、これらの模型は、白黒写真のわずかなコントラストの違いからその塗り分け箇所を定め、当時東海道・山陽線を走っていた新快速117系車両の色調を参考に塗装したものだった。
模型完成から数年の後、吹田機関区での保存車両とその色調を照合したところ、ほぼ一致したことは、モデラー冥利に尽きる。
ただ、連結面の妻板上部の塗り分けだけ事実と異なったが、資料がなかったので仕方ない。
(プレスアイゼンバーンの「関西の急電」という本を見れば、妻板の写真があるのだが、この本の刊行は、模型完成の後であった。)

新・旧関西急行車両の静かなる出遭い・・・これも思い出となってしまった。
豊橋で最後に出会った、車庫の外で憩いでいたものが、誕生当初の姿に整備復元されたのである。

月代(さかやき)を青々と剃りあげたお武家様の風情なりなり・・・お見事!!

先日「ライカの旅」で紹介したのも1次形である。

天気は小雨でベストなものではなかったが、原型に復元された流電が保存されたのは、この上にもない喜びである。


前面Rの半分だけが運転室で、あと半分は展望座席であったことがよくわかる。
とくに鉄道模型作成者にとっては、限りない情報の提供である。

これらのHOゲージの4両すべて真鍮バラキットからハンダ付けで組み立て、塗装したもの。
しかし、この車両の塗りわけ作業は、ほんとモデラー泣かせだった。
どうやって色分けしたかを考えれば、窓の数の少ない2次形を選んだわけが分かると思う。
1、全体にベージュの塗装をする。
2、マスキングテープで茶色に塗るところだけを残して覆いつくす。・・・ここが泣ける。窓枠ひとつひとつにマスキングしていくのだ。それも4両分の窓すべて・・・ああ、泣ける。
3、茶色を吹き付ける。
4、またマスキングして屋根のグレーを吹き付ける。前面のカーブの塗り分けがまた難しい・・・ふぅ。
今ではこの流電、佐久間レールパークにも復元されて当時の姿を眼にすることが出来るが、当時、吹田の復元車両が登場するまでは、オリジナル塗装のカラー写真というのが過去一枚くらいしか公表されてなく、それも着色写真だったのでなんとも頼りないものだった。
ゆえに、模型の塗り分けおよび正確な色調を判断するのは、ほんと並々ならぬ苦労を伴う作業だった。
それで、これらの模型は、白黒写真のわずかなコントラストの違いからその塗り分け箇所を定め、当時東海道・山陽線を走っていた新快速117系車両の色調を参考に塗装したものだった。
模型完成から数年の後、吹田機関区での保存車両とその色調を照合したところ、ほぼ一致したことは、モデラー冥利に尽きる。
ただ、連結面の妻板上部の塗り分けだけ事実と異なったが、資料がなかったので仕方ない。
(プレスアイゼンバーンの「関西の急電」という本を見れば、妻板の写真があるのだが、この本の刊行は、模型完成の後であった。)

新・旧関西急行車両の静かなる出遭い・・・これも思い出となってしまった。
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Comment
2008.05.18 Sun 21:34 |
昨日の朝、見たときは何故か見れなかった写真、今夜は全部OKです。
でも、この運転室では混雑したときのことを考えてなかったのでしょうか。戦後のように最初から運転室ドアがあればよかったのに。
いまじゃネコも杓子も223、中途半端な快速と区別がつかない。ロングシートでないだけマシですか。
- #JyN/eAqk
- なにわ
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2008.05.18 Sun 22:02 |
*jun’barさん。流電2連発楽しんでいただけましたか?この2回の間には7年の月日が流れているのですが、今から考えると、ともに昔むかしの出来事です。
*なにわさん。こんばんは。
この車両、運転室の扉がないので、運転手が乗り込む前に車掌が扉を閉めてしまうことがあったとか・・・。
なぜ外つけの扉を設けなかったのでしょうか?あくまでデザインを重視したための処理だったのか?