大阪・尻無川?甚兵衛渡し
途中まで幹線道路を進み、そのあと脇道にそれると尻無川の河口部分に、それがある。

その名も「甚兵衛渡し」という江戸時代から続く由緒ある渡船場である。
そっけない地名ばかりになった現在、こういう名称が平成の時代にも残っていることがなんとも嬉しい。

大正区側から港区を望む・・・大きな煙突の足元に対岸の渡船場が見える。

色が付けられているところが、現在運営中の8カ所の渡船場

ここは、15分間隔で運行。
朝の通学・通勤時間には、2隻でピストン運転をしている。
なにわの地は昔から川が多く、橋がなかった頃には渡し舟は重要な交通機関であった。
江戸の昔、尻無川の両堤は、数町にわたり黄櫨(はぜ)の木が数千本植えられていた。

当時の錦絵「しりなし漆づつみ甚兵衛の小家?浪花百景・芳雪画」
左奥に見えるのが甚兵衛渡しの小屋らしい。
「紅葉の季節には木々が真紅になり、多くの墨客・粋人が風流を楽しみ酒宴に興じて常ならぬ賑わいを呈した。川面に映える紅葉の美しさは、龍田川も及ばぬほど。」
と200年前に書かれた「摂津名所図絵」に記されている。
現在の港区と大正区を結ぶ「黄櫨の渡し」はまさにその中に設けられた渡船であり、岩崎橋が架橋されるまでは、市岡から泉尾に通じる主要な交通機関として盛んに利用されていた。
またこの「甚兵衛渡し」は老農甚平によって設けられたもので、その渡船小屋は「蛤小屋」と呼ばれ、待ち時間に名物の焼きハマグリ・シジミ汁を賞味する人が絶えなかったという。

明治期の風景(明治大正 大阪市史 第1巻より)
しかしながら、それは、昔のこと。
いまでは高潮対策の高い防潮堤で囲まれて、その風情は瞼の裏で偲ぶばかりなり。
ただ、渡船の位置は、江戸の昔とほとんど変わっていないとか・・・。

船が到着したようだ。
わずか1分足らずの船旅をお楽しみください。
〔解説〕
これらの渡船は、昔は渡守として世襲家業で経営されていたが、明治24年大阪府は渡船経営規則を定め、賃銭の一定を図り、市内における渡船に対し料金を平均にし、かつ危険を避けるため市営とすることになった。
明治38年天保山渡船場が初めて市営となり、府より有料経営の認可が下り、その後も有料にて渡船事業をしていた大阪市であったが、大正8年道路法の施行により、翌9年4月渡銭を廃止し、昭和7年より大阪市直営で運営されるようになった。
爾来変わらぬスタイルで地域住民の大切な交通機関として愛されているのだが、徒歩利用はもとより、自転車や車椅子の利用者にとってもありがたい存在である。
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Comment
2008.06.09 Mon 12:26 |
木の船に手漕ぎ・・・という時代劇に出てくるようなイメージのある渡し舟ですけど、甚兵衛渡しは本数も多くて利用者も結構いるんですね。
自転車を乗せている人が多いのも、地元の足となっている証拠かな!
- #-
- うたに
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2008.06.09 Mon 14:03 |
*うたにさん。こんにちは。
甚兵衛渡し・・・名前からすると、たしかに頑迷固陋な頬被りをした老爺が節くれだった手で櫓をこいで渡る小舟のような感じがしますが、ここは一応近代的?な渡船となっています。
東京の矢切の渡しの方がトラッドな感じではないでしょうか。
2008.06.09 Mon 21:08 | 渡し舟で行くUSJ
一番ワイルドなのは天保山でしょうね。渡ったところに桜島駅がありましたが、今は移転してしまいましたし、目の前にUSJがあるんだから、ここにも入り口がほしいところです。
戦前の地図を見ると、渡し舟が多くあります。
安治川トンネルも元は源兵衛渡でしたが、西九条駅から近いこともあって利用客が多く、トンネルになってしまいました。
花見に賑わう桜ノ宮の源八橋、いまや大幹線の豊里大橋もかつては渡し舟でした。
- #JyN/eAqk
- なにわ
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2008.06.10 Tue 07:08 |
*なにわさん。まいどです。
天保山の渡しは距離もありますし、大型船が着眼しているときなどはいいアプローチになります。
昔の渡しは、数多くありましたね。
港区だけ見ても、昭和12年には16カ所ありましたが、昭和30年には9カ所になり、現在では天保山と甚兵衛の2カ所のみです。
数は少なくなりましたが、いまだに現役というのがなんとも嬉しいですね。
2008.06.10 Tue 08:26 | さすが大阪
おはようございます。
最近忙しさを理由にコメントがいい加減かなと反省しています。
流石、川の多い大阪、渡船が8箇所もあるのには驚きです。
さて東京には何箇所あるかと
でも、通学や生活では使われてはいないでしょう。
水の都ですね。
- #-
- junsbar
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2008.06.10 Tue 08:58 | 佃の渡し
東京の渡し舟で思い出すのは、佃の渡し。現在放映中のNHKの朝のドラマは月島だけど、その月島と佃の間くらいから、明石町の間に都営の渡しがありました。昭和30年代末頃だったでしょうか、乗りに行った事があります。無料でした。その後、佃大橋が出来て無くなってしまいました。
大阪には二箇所の渡し舟があり、トンネルまであるとのこと、今更ながら驚いています。
2008.06.10 Tue 20:41 |
*jun’barさん。こんばんは。
いえいえ、拙い記事に、お忙しいにもかかわらず、コメントを頂戴して有難く思っています。
*む~さん。こんばんは。
佃界隈には渡船があったことは聞き及んでいます。ライカ使いの桑原甲子雄さんの写真集をみると登場します。木村伊兵衛さんのもあったかな?
とにかく風情あるものでした。
2009.06.05 Fri 00:44 | またまた懐かしいです!
甚兵衛渡しも懐かしいですね。小学生の頃、好きだったクラスメートの女の子が大正区に転校してしまい、彼女の家の近くの昭和山に自転車でよく遊びに行きました。その時にもよくこの渡しを使いました。水の都らしくていいですよね。いつまでも残っていて欲しいです。
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- こにたん
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