仮株券って何だ?
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- ∇ファジーコレクション - ├古書三昧(戦前篇)
本日は、不案内で甚だ苦手な分野である法律学から、少し堅苦しい話題をひとつ
ファジーコレクションの中には、訳のわからないものが多いが、これもそのひとつ。

假株券(仮株券)というものである。

(裏面)
名前からして、株券の親戚みたいなものだろうと推測できるが、会社法や商法にこんな規定はないし、一体なんだろうと思ってしまう。
仮株券そのものを検証する前に、発行会社の商号から、会社の事業内容とその時代背景が窺い知れるので、少し述べてみたい。
それは、「改良酒造」なる文字を冠するこの会社は明治20年代に全国的な規模で展開していった酒造改良運動によって設立したものであるということだ。
そもそも、江戸期における日本酒の醸造業者の大部分は、その組織が脆弱であり、醸造水準も満足なものではなかったが、明治以降に一気にその勢力を拡大した洋酒ことに麦酒(ビール)にその販路を奪われ、衰退の一途をたどっていた。
そこで日本酒の醸造業者は、麦酒醸造を手本として、近代的西洋的な醸造法に基礎をおいた品質の高い清酒を生み出しその挽回を図ろうとしたが、その活動がこの酒造改良運動といわれるものであった。
その一例として、酒造先進地の伊丹では、学理応用による酒造改良を目指さんと明治21年に酒造家28名を株主として資本金1万円の「有限責任伊丹酒造改良会社」を設立して、この醸造場で集中的に技術改良を企図している。これは醸造の大工業化を推進し、清酒の海外輸出を目標としたものであった。
他方、酒造先進地以外の零細醸造地では、酒造改良の目的は伊丹の近代化の例のようなものではなく、およそ学理応用とはほど遠い伝統的な灘酒造法を真似るものであった。丹波杜氏を招き、灘の酒造業者が培ってきたその技術を導入し応用することによって、酒質の均一化・向上化を図り上質な清酒を生み出すことを目指した。
そして鉄道・汽船の発展に伴い大量に流入してきた上方酒(灘・伊丹などで製造された良質な清酒)に伍するようなものを提供できる醸造業者となってその地方における地位を磐石にすることが目的であった。
しかしそれには気候・風土が異なるそれぞれの醸造地においては、醸造用水・醸造米の根本的改良から手をつける必要があったため、その手間と時間そして莫大な経費を要するものとなり、果たしてその試みの多くが失敗に終わったが、品質向上に成功した場合や軟水を用いた醸造方法の確立をみた場合などは、その地方における勢力地図を書換えるような成功例もあった。
さて、仮株券の検証に戻ると、前回の満鉄の株券とよく似ているし、名前から株券の類のものだろうと推測できるが、会社法や商法にこんな規定はないし、一体なんだろうと思ってしまう。わずかに商法施行法(明治32年法律第49号)に仮株券についての規定が見受けられる。
第56条 商法中株券ニ関スル規定ハ商法施行前ニ発行シタル仮株券ニモ亦之ヲ適用ス
第57条 商法施行前ニ発行シタル株券及ヒ仮株券ハ商法148条 又ハ218条ノ規定ニ違フモ之ヲ改ムルコトヲ要セス但商法施行後ニ株金ノ払込ヲ為シタル場合ニ於テハ前ニ払込ミタル金額及ヒ新ニ払込ミタル金額ヲ仮株券ニ記載スルコトヲ要ス
現在の会社法は、明治32年にできた商法(明治32年法律第48号)を基にしているが、その商法には規定がなく、同時に公布された旧法からの経過措置を示した商法施行法(明治32年法律第49号)にその名称が見出せるということは、さらに遡った法律を調べる必要がある。

また、この仮株券の発行年月は明治30年8月20日と記載されているので、やはりその当時の法律を見てみないと始まらないようだ。
ファジーコレクションの中には、訳のわからないものが多いが、これもそのひとつ。

假株券(仮株券)というものである。

(裏面)
名前からして、株券の親戚みたいなものだろうと推測できるが、会社法や商法にこんな規定はないし、一体なんだろうと思ってしまう。
仮株券そのものを検証する前に、発行会社の商号から、会社の事業内容とその時代背景が窺い知れるので、少し述べてみたい。
それは、「改良酒造」なる文字を冠するこの会社は明治20年代に全国的な規模で展開していった酒造改良運動によって設立したものであるということだ。
そもそも、江戸期における日本酒の醸造業者の大部分は、その組織が脆弱であり、醸造水準も満足なものではなかったが、明治以降に一気にその勢力を拡大した洋酒ことに麦酒(ビール)にその販路を奪われ、衰退の一途をたどっていた。
そこで日本酒の醸造業者は、麦酒醸造を手本として、近代的西洋的な醸造法に基礎をおいた品質の高い清酒を生み出しその挽回を図ろうとしたが、その活動がこの酒造改良運動といわれるものであった。
その一例として、酒造先進地の伊丹では、学理応用による酒造改良を目指さんと明治21年に酒造家28名を株主として資本金1万円の「有限責任伊丹酒造改良会社」を設立して、この醸造場で集中的に技術改良を企図している。これは醸造の大工業化を推進し、清酒の海外輸出を目標としたものであった。
他方、酒造先進地以外の零細醸造地では、酒造改良の目的は伊丹の近代化の例のようなものではなく、およそ学理応用とはほど遠い伝統的な灘酒造法を真似るものであった。丹波杜氏を招き、灘の酒造業者が培ってきたその技術を導入し応用することによって、酒質の均一化・向上化を図り上質な清酒を生み出すことを目指した。
そして鉄道・汽船の発展に伴い大量に流入してきた上方酒(灘・伊丹などで製造された良質な清酒)に伍するようなものを提供できる醸造業者となってその地方における地位を磐石にすることが目的であった。
しかしそれには気候・風土が異なるそれぞれの醸造地においては、醸造用水・醸造米の根本的改良から手をつける必要があったため、その手間と時間そして莫大な経費を要するものとなり、果たしてその試みの多くが失敗に終わったが、品質向上に成功した場合や軟水を用いた醸造方法の確立をみた場合などは、その地方における勢力地図を書換えるような成功例もあった。
さて、仮株券の検証に戻ると、前回の満鉄の株券とよく似ているし、名前から株券の類のものだろうと推測できるが、会社法や商法にこんな規定はないし、一体なんだろうと思ってしまう。わずかに商法施行法(明治32年法律第49号)に仮株券についての規定が見受けられる。
第56条 商法中株券ニ関スル規定ハ商法施行前ニ発行シタル仮株券ニモ亦之ヲ適用ス
第57条 商法施行前ニ発行シタル株券及ヒ仮株券ハ商法148条 又ハ218条ノ規定ニ違フモ之ヲ改ムルコトヲ要セス但商法施行後ニ株金ノ払込ヲ為シタル場合ニ於テハ前ニ払込ミタル金額及ヒ新ニ払込ミタル金額ヲ仮株券ニ記載スルコトヲ要ス
現在の会社法は、明治32年にできた商法(明治32年法律第48号)を基にしているが、その商法には規定がなく、同時に公布された旧法からの経過措置を示した商法施行法(明治32年法律第49号)にその名称が見出せるということは、さらに遡った法律を調べる必要がある。

また、この仮株券の発行年月は明治30年8月20日と記載されているので、やはりその当時の法律を見てみないと始まらないようだ。
手元にある明治26年1月発売の「現行 日本法令大全」であれば、何か判るだろう。
さっそく紐解いてみよう。

大きさを比較するために、広辞苑と並べてみる。厚さは広辞苑よりやや分厚く、大きな法令全書である。
この六法全書自体もコレクションの一部といえる年代モノ・・・今から116年前の刊行物だ。
これは、明治26年発行なので、明治23年公布された旧商法がのっている。

正価金三圓と、ずいぶん高価なものゆえ、学校や法人・公官庁用のもので決して個人向けの書物ではなかっただろう。
(注)明治30年頃、小学校の教員や巡査の初任給は月に8?9円程度だから、当時の3円はその約3分の1にあたる。

扉には、山縣有朋の題辞がみえる。 山縣有朋はすでに内閣総理大臣を務めていたが、首相を明治24年に辞任した後、僅か半年ほどの期間(明治25年8月8日?明治26年3月11日)第二次伊藤内閣の司法大臣として役職についていた。その僅かな期間に揮毫してもらったもののようだ。

閑話休題・・・早速商法を見てみよう。
この六法は、明治26年発行なので、明治23年法律第32号として公布された商法(以下「旧商法」という)が掲載されているが、現在の六法のようにすぐには出てこない。商法典は全体2130頁うち、なんと3分の2を経た1410頁目でようやくお出ましとなるため目次を探すだけでも大変なのだ。
(注)この法令全書の順序は次のようなものだった。第1類として憲法・議会・法例・公文式・皇室典範に始まり、第2類 官制及勲章位記 第3類 兵備 第4類 租税 第5類 貨幣・公債・度量衡 第6類 会計及び官有財産 第7類 通信及運送と果てしなく国家に関する規定が続き、第8類でようやく民事が登場し、第9類で商事に到着する。

第178条 株金全額払込以前においては会社は仮株券を発行し全額完納の後に至り始めて本株券を発行することを得
第179条 仮株券及び本株券は登記前に之を発行することを得ず
下記の南満州鉄道株式会社の株券を本ブログで紹介したとき、株券の金額は5回の分割払いにしていたが、株券としては本株券を最初から発行していた。
しかし、旧商法では、満額の支払いが終わらないうちには本株券を発行せずに、この仮株券というものを発行していたようだ。
しかしなぜ旧商法には規定があり、現行法の基となった明治32年商法にはこの仮株券が消滅したのだろうか?
・・・と思ったので、大阪市の中央図書館に出向き調べてみた。

「商法正義」・・・当時の商法解説本だ。
この本に書かれている第178条の仮株券のところを適当に意訳してみると・・・
内閣が雇った法律顧問のドイツ国法学博士であるロエスレル氏が言うには、「株金額の全額を完納しないうちに本株券を発行してしまうと、だまして株式を売買などをする不届き者が出てくる恐れがあるので、それを予防するために仮株券を発行するのだ。」とのことだ。
しかしこれには本書の筆者である佛国法律学士岸本辰雄(明治大学の創設者にして明治23年には大審院判事)が猛烈に反対の意見を述べている。
「これは全くの杞憂であり、本条は削除すべきである。」
「わが国の株券には数回に分けて払込をなすべき金額を記載した欄を設けてあり、分割払いがあるたびに印鑑を押して既納であることを示しているから、一目みただけで全額完納したものかそうでないものかは判断がつく。また上場している株式については、既納額によってその株式の相場というものが公表されているので、譲り受ける者がだまされる恐れはない。」
また「従来の商慣習では、数十株、数百株をまとめて株券1通としていたことがあったが、本法(176条)では株式1株ごとに株券1枚を発行せよとしているので、そうすれば、1社で少なくとも数百?数千枚となる。会社は、初めに領収書を発行し、半ばで仮株券を作り、最後に本株券を発行するとなるとその手数と費用は膨大となってしまう。」
よって「旧慣習を参考として、株金の4分の1を払い込んだ後は直ちに本株券を発行することを認めるべきである。」
そもそもわが国においては、この旧商法をもって会社に関する一般的法規の嚆矢となる。しかしそれまででもいくつかの会社は存在した。それは明治5年設立の第一国立銀行をはじめとし日本鉄道会社・東京海上保険会社・日本郵船会社などであるが、これらは政府による特定・特殊会社に対する単独法(国立銀行条例・株式取引所条例等)によって設立されたものや一般法規に基づかず個別随時に会社の設立に免許を与えたものである。つまりそれまでの会社設立は特許主義的な色合いが濃厚であった。
それを改め一般的な会社法規を制定しようとした明治政府は、明治11年外務省の公報顧問として来日していたドイツ法学者ヘルマン・ロエスレル(Hermann Roesler)に対して商法の草案を求めたのだった。
(注)伊藤博文の信任篤い彼は、大日本帝国憲法の草案も作成しており、その原案はほとんどがそのまま採用されている。
しかし彼は、商法案起草に際して今までの日本の商慣習を「曖昧で旧弊前近代的で全く考慮に値しない」と酷評して慣習法としての価値を全く認めようとしなかった。一方穂積陳重らは商法はそもそも商慣習の集成に由来するものであって本邦の商慣習を無視した商法はありえないと主張した。また実業界の商工会議所からの抗議もあって、法学界・実業界ともに混乱を極め明治23年に公布した旧商法の全面施行は延期につぐ延期となった。
しかし、部分的には明治26年7月に会社法・手形及び小切手・破産法の部分の先行施行が実施された。そして、明治32年新商法のスタートが目前に迫った明治31年7月にようやく施行期限延長が中止されたことにより全面施行に至った。
(注)民法及商法施行延期法律(明治25年11月法律第8号)では、商法ハソノ修正アル為明治29年12月31日迄ソノ施行ヲ延期ス。但シ修正ヲ終ハリタルモノハ期限内ト雖モ之ヲ施行スルコトヲ得。とあるが、これがさらに延期されている。
ともかく、公布を済ませておきながらその後に一部修正するから施行は先延ばし、しかのみならず見直しが終わったところから適宜施行という、何ともうら若き明治国家の長閑さを感じさせるものとなっている。
先述の岸本辰雄の意見が取り入れられたのかどうかは知らないが、結果として明治32年商法では仮株券制度は廃止されたのだ。この経緯には今までの法慣習を重視すべきとの考えと、民法と商法とは緊密な関係にあるにも関わらず、民法はフランス系であるにもかかわらず、商法はドイツ系という形式になりそもそもその法体系が違っており、お互いの間にある重複・矛盾を解消する必要性の存在があった。そのようなせめぎ合いの中でその姿を消した制度ともいえよう。
以上、仮株券については詳細に述べた資料がなく、その調査に頗る苦労したが、ある程度の出自が判明したので、ここにまとめた次第である。
ついては手許にあるこの仮株券も、明治中期のほんの6年間だけ機能していた旧商法のアダ花のような存在に過ぎず、よくぞ平成の時代まで残っていたなと感心することしきりである。
退屈な話題に、最後までお付き合いいただき・・・カタジケナイ
※ 本記事は、平成21年12月25日に加筆しました。
さっそく紐解いてみよう。

大きさを比較するために、広辞苑と並べてみる。厚さは広辞苑よりやや分厚く、大きな法令全書である。
この六法全書自体もコレクションの一部といえる年代モノ・・・今から116年前の刊行物だ。
これは、明治26年発行なので、明治23年公布された旧商法がのっている。

正価金三圓と、ずいぶん高価なものゆえ、学校や法人・公官庁用のもので決して個人向けの書物ではなかっただろう。
(注)明治30年頃、小学校の教員や巡査の初任給は月に8?9円程度だから、当時の3円はその約3分の1にあたる。

扉には、山縣有朋の題辞がみえる。 山縣有朋はすでに内閣総理大臣を務めていたが、首相を明治24年に辞任した後、僅か半年ほどの期間(明治25年8月8日?明治26年3月11日)第二次伊藤内閣の司法大臣として役職についていた。その僅かな期間に揮毫してもらったもののようだ。

閑話休題・・・早速商法を見てみよう。
この六法は、明治26年発行なので、明治23年法律第32号として公布された商法(以下「旧商法」という)が掲載されているが、現在の六法のようにすぐには出てこない。商法典は全体2130頁うち、なんと3分の2を経た1410頁目でようやくお出ましとなるため目次を探すだけでも大変なのだ。
(注)この法令全書の順序は次のようなものだった。第1類として憲法・議会・法例・公文式・皇室典範に始まり、第2類 官制及勲章位記 第3類 兵備 第4類 租税 第5類 貨幣・公債・度量衡 第6類 会計及び官有財産 第7類 通信及運送と果てしなく国家に関する規定が続き、第8類でようやく民事が登場し、第9類で商事に到着する。

第178条 株金全額払込以前においては会社は仮株券を発行し全額完納の後に至り始めて本株券を発行することを得
第179条 仮株券及び本株券は登記前に之を発行することを得ず
下記の南満州鉄道株式会社の株券を本ブログで紹介したとき、株券の金額は5回の分割払いにしていたが、株券としては本株券を最初から発行していた。
しかし、旧商法では、満額の支払いが終わらないうちには本株券を発行せずに、この仮株券というものを発行していたようだ。
しかしなぜ旧商法には規定があり、現行法の基となった明治32年商法にはこの仮株券が消滅したのだろうか?
・・・と思ったので、大阪市の中央図書館に出向き調べてみた。

「商法正義」・・・当時の商法解説本だ。
この本に書かれている第178条の仮株券のところを適当に意訳してみると・・・
内閣が雇った法律顧問のドイツ国法学博士であるロエスレル氏が言うには、「株金額の全額を完納しないうちに本株券を発行してしまうと、だまして株式を売買などをする不届き者が出てくる恐れがあるので、それを予防するために仮株券を発行するのだ。」とのことだ。
しかしこれには本書の筆者である佛国法律学士岸本辰雄(明治大学の創設者にして明治23年には大審院判事)が猛烈に反対の意見を述べている。
「これは全くの杞憂であり、本条は削除すべきである。」
「わが国の株券には数回に分けて払込をなすべき金額を記載した欄を設けてあり、分割払いがあるたびに印鑑を押して既納であることを示しているから、一目みただけで全額完納したものかそうでないものかは判断がつく。また上場している株式については、既納額によってその株式の相場というものが公表されているので、譲り受ける者がだまされる恐れはない。」
また「従来の商慣習では、数十株、数百株をまとめて株券1通としていたことがあったが、本法(176条)では株式1株ごとに株券1枚を発行せよとしているので、そうすれば、1社で少なくとも数百?数千枚となる。会社は、初めに領収書を発行し、半ばで仮株券を作り、最後に本株券を発行するとなるとその手数と費用は膨大となってしまう。」
よって「旧慣習を参考として、株金の4分の1を払い込んだ後は直ちに本株券を発行することを認めるべきである。」
そもそもわが国においては、この旧商法をもって会社に関する一般的法規の嚆矢となる。しかしそれまででもいくつかの会社は存在した。それは明治5年設立の第一国立銀行をはじめとし日本鉄道会社・東京海上保険会社・日本郵船会社などであるが、これらは政府による特定・特殊会社に対する単独法(国立銀行条例・株式取引所条例等)によって設立されたものや一般法規に基づかず個別随時に会社の設立に免許を与えたものである。つまりそれまでの会社設立は特許主義的な色合いが濃厚であった。
それを改め一般的な会社法規を制定しようとした明治政府は、明治11年外務省の公報顧問として来日していたドイツ法学者ヘルマン・ロエスレル(Hermann Roesler)に対して商法の草案を求めたのだった。
(注)伊藤博文の信任篤い彼は、大日本帝国憲法の草案も作成しており、その原案はほとんどがそのまま採用されている。
しかし彼は、商法案起草に際して今までの日本の商慣習を「曖昧で旧弊前近代的で全く考慮に値しない」と酷評して慣習法としての価値を全く認めようとしなかった。一方穂積陳重らは商法はそもそも商慣習の集成に由来するものであって本邦の商慣習を無視した商法はありえないと主張した。また実業界の商工会議所からの抗議もあって、法学界・実業界ともに混乱を極め明治23年に公布した旧商法の全面施行は延期につぐ延期となった。
しかし、部分的には明治26年7月に会社法・手形及び小切手・破産法の部分の先行施行が実施された。そして、明治32年新商法のスタートが目前に迫った明治31年7月にようやく施行期限延長が中止されたことにより全面施行に至った。
(注)民法及商法施行延期法律(明治25年11月法律第8号)では、商法ハソノ修正アル為明治29年12月31日迄ソノ施行ヲ延期ス。但シ修正ヲ終ハリタルモノハ期限内ト雖モ之ヲ施行スルコトヲ得。とあるが、これがさらに延期されている。
ともかく、公布を済ませておきながらその後に一部修正するから施行は先延ばし、しかのみならず見直しが終わったところから適宜施行という、何ともうら若き明治国家の長閑さを感じさせるものとなっている。
先述の岸本辰雄の意見が取り入れられたのかどうかは知らないが、結果として明治32年商法では仮株券制度は廃止されたのだ。この経緯には今までの法慣習を重視すべきとの考えと、民法と商法とは緊密な関係にあるにも関わらず、民法はフランス系であるにもかかわらず、商法はドイツ系という形式になりそもそもその法体系が違っており、お互いの間にある重複・矛盾を解消する必要性の存在があった。そのようなせめぎ合いの中でその姿を消した制度ともいえよう。
以上、仮株券については詳細に述べた資料がなく、その調査に頗る苦労したが、ある程度の出自が判明したので、ここにまとめた次第である。
ついては手許にあるこの仮株券も、明治中期のほんの6年間だけ機能していた旧商法のアダ花のような存在に過ぎず、よくぞ平成の時代まで残っていたなと感心することしきりである。
退屈な話題に、最後までお付き合いいただき・・・カタジケナイ
※ 本記事は、平成21年12月25日に加筆しました。
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Comment
2009.12.04 Fri 21:06 | *みうらさん こんばんは
地方鉄道法の第5条では、地方鉄道会社ノ株金ノ第1回払込金額ハ株金ノ10分ノ1迄下ル事ヲ得但シ兼業トシテ地方鉄道ヲ敷設スル場合ハ此ノ限リニ在ラス
とありますし、満鉄に関しては、設立時の官報の紙面を見ると、勅令第142号(明治39年6月7日)の第5条にも同様の定めがあることは確認しています。
しかし、ブログの紙面にはそこまで言及していませんでした。機会を見て記事の修正をしたいと思います。
ご指摘ありがとうございます。
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