明治大帝と大阪偕行社と追手門学院の関係について
明治紀念標については、以前2回シリーズで記事にした。
この明治紀念標は、明治35年に中之島から大阪偕行社の敷地内に移築されていたが、戦争中の昭和18年3月に供出されその姿を消した。
またその管理母体の大阪偕行社は、陸軍の附属機関であるので、昭和20年の終戦とともに解散となり、その跡地は、現在では大阪偕行社附属小学校の流れをくむ追手門学院大手前中高の校地となっている。

この写真は昭和34年当時のものだが、校門はもとの大阪偕行社のものをそのまま使用している。、大正5年に第四師団の酒保部から移築された門柱であるといわれている。

現在は校舎改築に伴い少し西に移動している。

大正10年の着色写真・・・大阪偕行社正門とある。

校内に「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の処」の石碑がある。
これは同校に明治天皇が行幸されたのではなく、大阪偕行社敷地内にあったものがそのまま承継されているからである。(一番上の写真の中央に写っている。)
明治20年2月15日京都御所を皇后御同車で発せられた天皇は、鉄道で大阪入りされた。
この当時の御料車は、鉄道博物館に保存されている初代壱号御料車である。

(昭和51年のご在位50周年の記念切符より)
この初代壱号御料車は、明治9年神戸工場で製造されたもので、明治10年2月5日の大阪・神戸間の開通式にお召し列車として運用されたことを最初としてその後の何回となくご乗車されて馴染みのあるものと思われる。
因みに京阪神間のお召し列車は、明治10年に4回、明治13年に2回、明治20年にはこの大阪鎮台への行幸を含め計4回運行されている。
梅田停車場では、大阪鎮台司令官・旅団長・大阪府知事・大阪控訴院長等が迎謁し、そこから大阪城内の大阪鎮台まで車駕列が続く。
美子(はるこ)皇后は別れて、住吉大社に参詣された。
熾仁親王・能久親王・宮内大臣伊藤博文・侍従長以下宮内諸官・近衛将校・大阪府知事らが供奉した。
大阪鎮台にて司令官であり、大阪偕行社附属小学校の創設者である陸軍中将高島鞆之助が表を上りて兵事進捗の状を奏し、観兵式をご覧になった後・・・
11時30分に大阪偕行社に到着され、そこを行在所とされた。
そこでは、観兵式に関与する各隊の将校の拝謁を受けた。とある。 「明治天皇紀」より
大正時代になってから、この日のことを記念して、大阪偕行社敷地内に上記の石碑が設置された。
また、明治26年夏にオーストリア帝国の皇位承継者である皇太子フェルディナントが世界周遊の途中日本に寄港した際、大阪偕行社にも立ち寄っている。
この皇太子フェルディナントは、その21年後にサラエボで暗殺されるあの悲運の皇太子である。
その様子は、皇太子の旅行記から窺うことができる・・・
・・・今日は、焼け付くような暑さだったから、砲兵工廠の見学は煩わしさを感じたが、つくづく行ってよかったと思う。日本の兵器製造の水準の高さを自分の目で確認できたからだ。日本が極めて短時日にヨーロッパ式兵器製造に習熟した事実は驚異としかいうほかない。
(中略)
兵器工場の見学が終了すると、将校のクラブ(大阪偕行社か)で盛大な昼食会が催され、将校も司官も出席した。建物は外見はヨーロッパ風だが、内部に入ってみると純日本風だった。がそれよりむしろ少数ながら魅力的な工芸品のコレクションのほうに目が奪われた。
それに青銅製の水盤には富士山から運んできたという大氷塊が置かれ、心地よく涼気をふりまいていた。
食事中ひとりの司令官が軽妙な言動をしてくれたおかげで一座の空気がぐんと明るく盛り上がった。体が弱っているから医師から飲酒を禁止されているといいつつも、コニャックなら許されていると称し、がぶがぶと飲んでいたからである。 (「オーストリア皇太子の日本日記」より)
この皇太子は、ウイーン民族学博物館の日本部門の基礎を成す18000点におよぶ美術品も蒐集しているので、大阪偕行社でもその工芸品に興味津々なのが窺え見えてほほえましい。
肝心の大阪偕行社の建物については真正面からの写真が少ないのだが、これはその一枚 第四師団酒保部発行の絵葉書写真である。

威容を誇る大阪偕行社の本館であった。

昭和17年の地図では、コの字型をした本館前の前庭には、大きな円形の車寄せがあったことが判る。
また当時の色彩はいかがなものだったのかといえば、母校にある国展審査員辻愛造氏による「明治記念碑」の絵画が教えてくれる。

“追手門学院小学校記念室収蔵”
記念碑の後ろには、大阪偕行社の「モダンな建物」が油彩でカラフルに描かれている。
外壁は、白色というよりクリーム色のようだし、屋根瓦は黒ではなく明るいグレーでとても軽快な佇まいである。
また暖炉からの煙突が屋根から突き出ているが、裾を固める煉瓦の色合いが色鮮やかである。
秀麗を誇った偕行社であるが、戦禍で綺麗に焼失してしまった。

なぜかマントルピースの煙突部分だけが残り、異様な姿を残していた。
この部分に強固な鉄筋が使用されていたものと推察する。
左後の建物は、昭和7年建造の小学校校舎 右側の建物は偕行社本館の附属建物で、平成になっても中高の体育館や学生食堂として長らく使用されていた。

焼け落ちた偕行社の跡地は、隣接する大阪偕行社附属小学校(現追手門学院小学校)の校内菜園として児童・教職員こぞって汗を流していたようだ。
しかし、厳しい食糧難の時代にもかかわらず、なんと恰幅のよい子ども達だろうか。
「欠食児童」なんていなかったんだろう。

戦後、苦労の末この地の払い下げを受け、ここに中学の木造校舎が昭和24年に建設されたのだった。

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Comment
2009.12.23 Wed 18:51 |
明治天皇ですか。ぼんくらの相方がしばらく仕事をしていた山梨の酒蔵は明治天皇が行幸の際に1泊しただけで「行在所」として観光スポットになってます(笑)。天皇が食事の時に使ったという箸がガラスケースにうやうやしく飾られていましたっけ^^;
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- ぼんくらオヤジ
- URL
2009.12.23 Wed 22:58 | *ぼんくらオヤジさん こんばんは
今朝のNHKTVの特番でお召し列車の御料車の歴史をやってましたが、明治天皇の行幸は、当初はおおらかなものだった様ですが、明治も中期以降はなかり堅苦しい国家主義の権威付けとしての様相を帯びてきたようです。
そこで日本各地に明治天皇××跡が点在するのでしょうね。
2009.12.25 Fri 13:13 | お邪魔しました
うちの娘が先日府下の高校演劇の寄り合いとやらでファジーさんの母校にお邪魔したそうです。大阪城を臨む絶好のロケーションにいたく感動しておりました。
「お金持ってそうな学校」とも(笑)
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- サットン
- URL
2009.12.25 Fri 20:37 | *サットンさん こんばんは
お嬢さんが、母校を訪問いただいたとは光栄です。私が校内を歩いていても、学生はきちんと挨拶はしてくれてますが、なにか失礼な対応はなかったでしょうか?
むかしはこんな木造校舎もありましたが、いまでは立派な高層の校舎になりました。狭い校地を最大限利用するとこうなったようです。
確かに眺望は素晴らしいと思いますが、それに見合う大所・高所から意見できるような人材を育ててもらいたいと常々思っています。