日本最古のカメラメーカー “堆錦(ついきん)カメラ”
- Sat
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- ∇愛しき冩眞機 - ├中判・大判・etc
平成21年7月5日まで、尼崎市総合文化センターで第9回上野彦馬賞のフォトコンテストをしているので前の日曜日に出かけてみた。

このフォトコンテスト前回も訪れたのであるが、「上野彦馬賞」と冠するくらいなので、写真コンテストもさりながら、併設される古写真に関する展示がとても魅力的なのだ。
前回は幕末写真の集大成だったが、今回は当時のカメラ「堆錦(ついきん)カメラ」が主役だった。

ちょうど21日(日)14時から古カメラに造詣が深い東野進氏による「日本最古のカメラメーカー」と題した講演会があったので、それに併せるように会場を訪れた。

このフォトコンテスト前回も訪れたのであるが、「上野彦馬賞」と冠するくらいなので、写真コンテストもさりながら、併設される古写真に関する展示がとても魅力的なのだ。
前回は幕末写真の集大成だったが、今回は当時のカメラ「堆錦(ついきん)カメラ」が主役だった。

ちょうど21日(日)14時から古カメラに造詣が深い東野進氏による「日本最古のカメラメーカー」と題した講演会があったので、それに併せるように会場を訪れた。
昭和から明治末年までのカメラはすでに学習済みにして、コレクションもまずまずだが、幕末の堆錦カメラについては、雑誌「クラシックカメラ専科」で、その記事を読んだくらいで余り知識がなかった。
そこで、怠惰な日曜日の午後を知的に過ごす最良の方法と考え、出かけたのだった。
(知り合いの多くが、大阪市立大学で「第1回大阪検定」に取組んでいる時刻だ)

東野進氏の話によると次のようだ。
日本の最初期に登場した写真機である堆錦(堆朱とも呼ばれる)カメラは、現在4台確認されている。
(1)講師である東野さんのコレクションが1台
(2)石黒さんというコレクター所有のものが1台
(3)福井市郷土歴史博物館が所有のものが1台
(4)桑名藩主が愛用していたものが1台(惜しくも大学保存中、戦禍により焼失す)
以上計4台である。
堆錦カメラと堆朱カメラとは、名称も似ているし、どちらも漆で仕上げてあるので、同じものに見られがちであるが、そもそも製造過程が異なるとのことである。
堆朱カメラは、ボディの木板に漆を重ね、模様を彫り、また漆を重ねる。この繰り返しを続けていくので、カメラのボディが完成するまで8カ月を要するというものだ→詳細はこちら
一方堆錦カメラは、銅板等で薄い押し型をこしらえて、それを漆などを用いてカメラ本体に貼り付けたものである→調べると琉球堆錦が現れた。
これら4台はすべて堆錦カメラで、今のところ国産の堆朱カメラは見つかっていないとのことである。
また、このカメラより古い写真機も国内で発見されているが、さまざまな人物が指物を作るごとく製造していたようだ。
そこで話を続けて聞くと、これら堆錦カメラが同一人物によって作られた可能性が極めて高いということである!
現存する3台のレンズ周りの台枠の唐草文様をその拓本で見比べても見るとピタリ一致するし、戦災で焼失したカメラについては、その拡大写真からその部分を拡大して照合してもとこれも合致するとの事である。


それ以外の唐草模様にも表・裏の差異はあるが、その意匠は一致し、使用木材も現存する3台は同じものらしい。
となると製作者は4台とも同じ人物であると考えられる。
当時コレだけの作業ができる人物は、色んな要素から絞り込むと文久年間(1861?1863)の名古屋・大須の牧田屋味田孫兵衛であろうということだ。
よって彼をして日本の最古のカメラメーカーと称しているようである。
日本の近代史においてカメラの役割を余り重要視しないところがあるが、これらのカメラを中心とした写真撮影の文化があってこそ、坂本竜馬の写真を今でも見ることができ、幕末・明治の要人の肖像が残り、市井の生活の様子が後世に伝えられたのである。
このあたりの資料が全くといってない状況での講演会・・・かなりタメになった。

そして福井市郷土歴史博物館が所有している実物の堆錦カメラをじっくり鑑賞できるという貴重な機会を得たことに感謝する。
知的満足感を頗る覚えて帰路につく。

最寄り駅である阪神・尼崎駅の南側にある阪神電車「東部列車所」に立ち寄ってみた。
昭和30年代風のブロック造りの事務室が、なんともええ雰囲気。

その後ろに構える大きなレンガ造りの資材倉庫
西宮駅にあった煉瓦の変電所が震災で崩壊してしまったので・・・

(H7.2.12写)
・・・ここのものは阪神電車では貴重な建物である。

午後は大雨が降るというので、長い雨傘を持参したが、なんとドピーカン!
これだけ外れるのも最近では珍しい。
写真も少々露出オーバー気味で・・・早くも盛夏の風情なりなり
そこで、怠惰な日曜日の午後を知的に過ごす最良の方法と考え、出かけたのだった。
(知り合いの多くが、大阪市立大学で「第1回大阪検定」に取組んでいる時刻だ)

東野進氏の話によると次のようだ。
日本の最初期に登場した写真機である堆錦(堆朱とも呼ばれる)カメラは、現在4台確認されている。
(1)講師である東野さんのコレクションが1台
(2)石黒さんというコレクター所有のものが1台
(3)福井市郷土歴史博物館が所有のものが1台
(4)桑名藩主が愛用していたものが1台(惜しくも大学保存中、戦禍により焼失す)
以上計4台である。
堆錦カメラと堆朱カメラとは、名称も似ているし、どちらも漆で仕上げてあるので、同じものに見られがちであるが、そもそも製造過程が異なるとのことである。
堆朱カメラは、ボディの木板に漆を重ね、模様を彫り、また漆を重ねる。この繰り返しを続けていくので、カメラのボディが完成するまで8カ月を要するというものだ→詳細はこちら
一方堆錦カメラは、銅板等で薄い押し型をこしらえて、それを漆などを用いてカメラ本体に貼り付けたものである→調べると琉球堆錦が現れた。
これら4台はすべて堆錦カメラで、今のところ国産の堆朱カメラは見つかっていないとのことである。
また、このカメラより古い写真機も国内で発見されているが、さまざまな人物が指物を作るごとく製造していたようだ。
そこで話を続けて聞くと、これら堆錦カメラが同一人物によって作られた可能性が極めて高いということである!
現存する3台のレンズ周りの台枠の唐草文様をその拓本で見比べても見るとピタリ一致するし、戦災で焼失したカメラについては、その拡大写真からその部分を拡大して照合してもとこれも合致するとの事である。


それ以外の唐草模様にも表・裏の差異はあるが、その意匠は一致し、使用木材も現存する3台は同じものらしい。
となると製作者は4台とも同じ人物であると考えられる。
当時コレだけの作業ができる人物は、色んな要素から絞り込むと文久年間(1861?1863)の名古屋・大須の牧田屋味田孫兵衛であろうということだ。
よって彼をして日本の最古のカメラメーカーと称しているようである。
日本の近代史においてカメラの役割を余り重要視しないところがあるが、これらのカメラを中心とした写真撮影の文化があってこそ、坂本竜馬の写真を今でも見ることができ、幕末・明治の要人の肖像が残り、市井の生活の様子が後世に伝えられたのである。
このあたりの資料が全くといってない状況での講演会・・・かなりタメになった。

そして福井市郷土歴史博物館が所有している実物の堆錦カメラをじっくり鑑賞できるという貴重な機会を得たことに感謝する。
知的満足感を頗る覚えて帰路につく。

最寄り駅である阪神・尼崎駅の南側にある阪神電車「東部列車所」に立ち寄ってみた。
昭和30年代風のブロック造りの事務室が、なんともええ雰囲気。

その後ろに構える大きなレンガ造りの資材倉庫
西宮駅にあった煉瓦の変電所が震災で崩壊してしまったので・・・

(H7.2.12写)
・・・ここのものは阪神電車では貴重な建物である。

午後は大雨が降るというので、長い雨傘を持参したが、なんとドピーカン!
これだけ外れるのも最近では珍しい。
写真も少々露出オーバー気味で・・・早くも盛夏の風情なりなり
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Comment
2009.06.27 Sat 08:28 |
幕末の偉人たちが、画像で残されていると言うのは、考えただけでもすごいと思います。でも、長時間レンズの前に居たということを想像すると、少々滑稽な気もしますが・・・
赤煉瓦の建築物、かつてはよく見かけたのに、最近では捜さなければならないほど見かけなくなってしまいました。
2009.06.27 Sat 19:37 | *のりさん。こんばんは
幕末の偉人を撮影した当時のフイルムは湿板だったので、その調整も難しく、準備が大変でしかも感度が低く厄介な代物でしたね。
あのままであれば、現在の写真の発展はなかったでしょう。乾板フイルムやライカ判の発明は、我々に写真を撮る楽しさを与えてくれたといっても過言ではないでしょうね。