昭和51年 スイッチバックの駅 和歌山線・北宇智
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- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和50年-昭和52年
きっと廃止直前には多数のマニアがやってきては、喧騒の後、潮が引くように去っていったと思われるが、30年前のこの駅の様子がモノクロネガではあるが残っていた。
最近の北宇智駅しかご存じない人にとっては、これもまた歴史の一事象となろうと、ここに掲載する次第である。
昭和51年11月23日生憎の天気であったが、仲間と和歌山線の北宇智駅を目指して出発する。

王寺駅にいたキハ1138・・・この当時でも数少なくなってきた機種である。
天王寺から王寺までは関西線を利用し、ここから10時15分発の和歌山行き(右下)に乗り換えた。

この当時このあたりにはまだまだ荷物列車が数多く運用されていたので、マニ60を牽引するDE10の姿もしばしば見られた。
高田・御所と徐々に高度を高くしていき、近鉄の乗り換え駅吉野口を過ぎれば、20‰の勾配を下っていく。
その途中に目的地である北宇智駅がある。11時06分着。

本日は祝日なので日章旗が立てられている。最近では見なくなった風景のような気がする。


出札口から事務室をのぞく・・・通票閉塞機の姿が見える。
「ボンボン」「チンチン」と静かな待合に隣の駅からの信号音がよく響いていた。

無人駅ではないが、改札口は極めて簡素である。

五條・和歌山方面を望む

五條・和歌山方面からは左の坂の勾配を登って来て一旦駅の横を通り過ぎて側線に入り、バックしてホームに入線する。
吉野口方面を望む

右側は、和歌山方面からやってきた列車が一旦頭を突っ込む側線(行止り)である。
左側は、吉野口への登り勾配となる。
11時18分には京都から白浜行きの下り急行「しらはま」1号がやってきた。

タブレットキャリアをキャッチする腕木はすでに用意され、窓から渡すべきタブレットキャリアは用意万全。

受け渡しを行う駅を列車が通過する場合は、運転士は通過の際に速度を落とし、運転士又は運転助士が、現在持っているタブレットキャリアをホームの末端にある渦巻き型の通票受器に、タイミングを合わせて引っ掛けて手放し・・・

・・・前方の駅員のいる白い杭にある通票授器から新しい通票をタブレットキャッチャーで受け取って通過していく。

昔は、閉塞区間を通過する列車は、どの列車でもこうして通過していったが、今となっては詳しい説明がなければ分かってもらえないほど珍しいものとなってしまった。
丸いタブレットキャリアの最下部には砲金製のタブレット(通票)が入っている。そのタブレットには○△□と穴が開いていて、駅事務室内にある通票閉塞機を通じて相手駅との連絡の後取り出された唯一のタブレットを列車に持たせることにより、閉塞区間を当該列車は進入することが出来る。
タブレットキャリアとタブレットの様子

てっぱく土産の手ぬぐい(部分)より
この急行「しらはま」は、和歌山線を通る唯一の急行として有名であり、京都から奈良線・桜井線を経由して王寺から和歌山線経由で白浜までを結んでいた。

この時刻表は昭和44年10月のものであるが、これを見ると、名古屋発の急行「平安・かすが・しらはま」が関西線を下ってきて奈良駅で併結運転されていたので、京都・名古屋方面からもそれなりの利用があったのだろう。

しかし名古屋発が8時05分、京都発が9時21分で一本の列車となり奈良を出発するのが10時35分、白浜には14時36分着という、今の基準で考えるとかなり悠長な列車であった。

11時50分発の上り王寺行き普通列車が五條からやってきた。
一旦駅を左に見ながら通過して前方の側線に入る。

バックしてホームに到着・・・ここで初めて乗客の乗降となる。
右の無蓋車は、その前に入線した下り貨物列車
因みに手前の「55」や「45」のプレートは、分岐用速度制限標識で、この例では「ポイントを右に行くときは速度制限55km/h」「ポイントを左に行くときは速度制限45km/h」となる。

定刻になると王寺に向かって出発していくキハ4515ほか

なんと最後尾はキハユ15?4(亀山区所属)という珍車であった。
キハユ15は、キロハ18を改造したもので、総数6台限りの車種である。
この時期までに他の5輌はキユニ15に改造されてしまったが、この車輌だけは郵便・普通車の併合車として残っていた。(昭和53年10月20日廃車)

王寺行きの普通列車が出て行くと、下りの貨物列車が推進運転で側線に入った後、和歌山方面に降っていった。

我々の乗車すべき列車がやってきた。12時21分の和歌山行きである。
キハ36のほかに後方には低屋根の車輌が見えるが、この編成は王寺で見たキハ11を連結したもの(一番最初の写真)であった。
ご覧の通り普通列車のタブレット交換は、駅員が手渡しで行っている。

これは、妙寺駅であろうか。上りの貨物列車と対向する。

途中笠田駅では上りの急行「しらはま1号」と対向

和歌山の操車場が見えてきた・・・終点ももうスグだ。

この当時のDF50は、紀勢線の主力の牽引機だったが、3年後の昭和55年にはこの地域から姿を消した。

和歌山からの阪和線は、ガタピシの鉄棒電車に揺られて山中渓の或る場所に向かった。
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Comment
2009.08.29 Sat 07:12 |
こんにちは!
北宇智までC58を撮りに行ったことがあり、懐かしさが溢れてきます。関西線の時刻表もいいですね~、今の時刻表にはない楽しさ一杯のページです。
それと最後の阪和線車内の写真、床のワックスのニオイを思い出しました。
素敵な写真の数々、ありがとうございます。
このひとつ前の記事、自分は旺文社ラジオ講座の夏季合宿で栂池へ行ってました。(たぶんファジーさんの一年前)
- #-
- TAK
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2009.08.29 Sat 07:28 | *TAKさん おはようございます
早朝にも拘らずコメントありがとうございます。
私は和歌山線のC58には間に合いませんでした。草津線・信楽線には何とか間に合いましたが。
旺文社ラジオ講座・・・毎回ブラームスの大学祝典序曲でスタートする受験口座でしたね。いくつかは聴いてました。
そちらは栂池でしたか。夏場は草原が広がるだけなので勉強に集中するには良いところかも・・・スキーには良く行きました。
あれから30年以上・・・昭和も遠くになりましたが、同世代として、これからもコメントお願いいたします。
2009.08.29 Sat 13:08 |
ここが山中かというと、とてもそんな雰囲気の駅ではないいですよ。ただ、蒸気の時代には、勾配がきつくて駅ができなかったのでしょう。
当時は名古屋から紀伊半島を一周する需要はあったのでしょうが、72年3月の改正で名古屋編成の連結は無くなっています。
現在は京都を10時35分に出る「くろしお」に、奈良から10時38分に出る大和路快速で乗り換えると、13時20分に白浜に到着します。
5時間が3時間になったとはいえ、気動車にしてはがんばっているじゃないですか。この後和歌山で天王寺から来る編成とつながるのですから。
最後の写真の兄ちゃんのマジソンスクエアバッグに70年代後半を感じます。本物か偽物かわかりませんが。
- #JyN/eAqk
- なにわ
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2009.08.29 Sat 16:00 | *なにわさん こんにちは
この急行「しらはま」がなくなってから和歌山線は面白くないローカル線になってしまいましたね。私もこれから後には積極的には訪れていないようです。
阪和線車中のマジソンバッグ・・・気付かれましたか。私も拡大して気づきました。
ほんとに流行ってましたね。
拙ブログ読者のぼんくらオヤジさんも記事にされていました。
http://bonkura-oyaji.blog.so-net.ne.jp/2009-08-06
2009.08.29 Sat 18:42 | 子どもの頃
タブレットキャリアが不思議で不思議で仕方がありませんでした(笑)
まるで駅員さんから謎かけをされてるみたいで、タブレットの穴を
食い入るように見つめては夢想にふけっていました。
- #-
- ぼんくらオヤジ
- URL
2009.08.29 Sat 20:09 | *ぼんくらオヤジさん こんばんは
このタブレットの制度・・・なかなか理解するのは難しいんですよ。
一般の大人では説明できないでしょう。まして子供なら駅員が「三角確認!」とかいいながら手渡ししている様を見ると、なんか大切なものが入っているカバン(ポシェット)のような・・・ものとしか理解できませんでしたね。
いまではほとんど見る機会がない「昭和の遺産」といえるものなので、ぼんくらオヤジさんのページで取り上げていただいてもいいかも知れません。ご検討よろしくおねがいします。
また勝手ながら「マジソンバッグ」でリンクを貼らせて頂きました。ご了承ください。
2009.08.30 Sun 09:09 |
鉄道の原風景を思わせるような写真ですね。今となっては全てが貴重品です。
時刻表の寝台車のマーク!大変懐かしいです。この時刻表、急行「大和」が、廃止された直後のもののようですね。
2009.08.30 Sun 20:09 | *のりさん こんばんは
鉄道の原風景・・・ほんとうにそうかもしれません。
少し前まであちこちで見られた風景なんですがね。
急行大和・・・私の職場にこの急行に乗って湊町から東京まで行ったという人がいます。
2009.09.03 Thu 09:12 | おひさしぶりです
ご無沙汰してしまいました。
さて、大変懐かしい光景を拝見しました。
昔は、自動車がそんなに普及していなかったので、
悠長な列車でもそれなりに利用客はいたのでしょうね。
一時期、省エネの代表的な鉄道やバスに
追い風が吹いていたのですが、
最近なんだか逆行しているのが懸念されます。
- #-
- manamana
- URL
2009.09.03 Thu 17:37 | *manamanaさん こんにちは
高速道路が1000円というのは結構なことだとは思いますが、それによって鉄道やフェリーにしわ寄せが来ると、やはり不平等や不均衡を感じます。また地球温暖化の元凶CO2を発生させる要素ですからね。
2018.05.08 Tue 21:34 |
こんばんは。
北宇智駅のスイッチバック、電化され性能に余裕のある電車が走るようになってからも、駅の設備をそのままに残されていたのですね。
私も一度だけですが和歌山線を訪ねたことがあります。105系電車が走り、スイッチバックは廃止された後でした。
お写真の非電化の頃、気動車が前後に動き駅に出入りしていたと想像すれば、ますますその様子を見てみたくなります。
思えば、私自身、スイッチバックを経験したのはほんの数箇所、棒線に改修された「元」スイッチバックの駅ばかりを見てきました。遺構がよく残っているところも多くありましたが、だいたいは寂しい光景でした。
お写真、興味深く拝見させて頂きました。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
2018.05.10 Thu 06:12 | *風旅記さん こんにちは
そうですね。車輛の性能アップとともにスイッチバックは姿を消す運命なのは仕方ありませんね。
また、一方では現役のそれもまだまだあります。
過日肥薩線のスイッチバックと大ループを経験しましたが、その雄大な景色とともに記憶に残るものとなりました。
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- ファジー
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