昭和57年国鉄・多度津工場からの帰路
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- ∇鐵道ほとがら帖/昭和編 - ├昭和57年
昭和57年9月12日国鉄・多度津工場で驚愕物件を見学した後は、ふたたび多度津駅に戻る。
駅への道すがら仲ノ町の交叉点で見つけた何とも味わいのある道しるべ・・・思わずシャッターを押した。

右の石標は、駅への道しるべである。
きしやばという言葉の響きが明治の鉄道黎明期の雰囲気を伝えていて何とも興味深い♪
きしやば→汽車場→停車場(多度津駅)
また左の石標は、お遍路用だと思われる。
右はしくら道 すくことひら道 (右:箸蔵道 直進:金刀比羅道)である。
この写真では写っていない右側の面には、すくふなば(直進:船場)とある。多度津港は、瀬戸内航路の寄港地であったことがわかる。
大正2年2月尾道から船に乗り、多度津港へ上陸した志賀直哉は「暗夜行路」で多度津港と同駅を次のように表現している。
「多度津の波止場には波が打ちつけて居た。波止場のなかには達磨船、千石船といふやうな荷物船が沢山入つて居た。・・(中略)・・停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えてゐた。其処に二十分程待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗つて金刀比羅へ向つた。」

大正4年改正鉄道地図 和楽路屋刊
この当時宇高航路が完成しているが、尾道・鞆を結ぶ水上航路の基点として多度津港の役割は大きいことが、この地図からもうかがえる。志賀直哉もこの航路を利用したようだ。

明治37年鉄道地図 和楽路屋刊
さらに時代を遡るとその水運の重要なるが判る。
因みに予讃線は、下の地図の通り明治22年に丸亀?琴平を讃岐鉄道が敷設したが、その後明治37年には山陽鉄道が吸収合併して運営していた。そして、明治39年には国有化されている。

明治24年大日本鉄道線路全図 鉄道庁
多度津駅の構内に戻ると、土讃線の高知行き普通241列車が入線していた。

キハ40209+キハ2617+キユニ2822

肉厚のクラシックな窓枠をもつキハ26は、他所ではもう見ることが叶わないのではなかろうか。

土讃線のサボの地色は、朱色となっている。

再び高松まで戻ってくると、急行うわじま11号の姿あり。
15:19に高松を発ち、宇和島には21:14に到着するので、行程291km・約6時間の旅となる。

こういう長距離列車が一日に何本も出ていたのは、国鉄ならではのダイヤだといえよう。

手許のネガを見るとこの後のコマは、電化直後の伯備線用に入線した岡山駅の電車特急やくも13号(17:10発)となっている。
全く宇高連絡船の様子は撮影していないようだ。今思えば惜しいことをした。
駅への道すがら仲ノ町の交叉点で見つけた何とも味わいのある道しるべ・・・思わずシャッターを押した。

右の石標は、駅への道しるべである。
きしやばという言葉の響きが明治の鉄道黎明期の雰囲気を伝えていて何とも興味深い♪
きしやば→汽車場→停車場(多度津駅)
また左の石標は、お遍路用だと思われる。
右はしくら道 すくことひら道 (右:箸蔵道 直進:金刀比羅道)である。
この写真では写っていない右側の面には、すくふなば(直進:船場)とある。多度津港は、瀬戸内航路の寄港地であったことがわかる。
大正2年2月尾道から船に乗り、多度津港へ上陸した志賀直哉は「暗夜行路」で多度津港と同駅を次のように表現している。
「多度津の波止場には波が打ちつけて居た。波止場のなかには達磨船、千石船といふやうな荷物船が沢山入つて居た。・・(中略)・・停車場の待合室ではストーヴに火がよく燃えてゐた。其処に二十分程待つと、普通より少し小さい汽車が着いた。彼はそれに乗つて金刀比羅へ向つた。」

大正4年改正鉄道地図 和楽路屋刊
この当時宇高航路が完成しているが、尾道・鞆を結ぶ水上航路の基点として多度津港の役割は大きいことが、この地図からもうかがえる。志賀直哉もこの航路を利用したようだ。

明治37年鉄道地図 和楽路屋刊
さらに時代を遡るとその水運の重要なるが判る。
因みに予讃線は、下の地図の通り明治22年に丸亀?琴平を讃岐鉄道が敷設したが、その後明治37年には山陽鉄道が吸収合併して運営していた。そして、明治39年には国有化されている。

明治24年大日本鉄道線路全図 鉄道庁
多度津駅の構内に戻ると、土讃線の高知行き普通241列車が入線していた。

キハ40209+キハ2617+キユニ2822

肉厚のクラシックな窓枠をもつキハ26は、他所ではもう見ることが叶わないのではなかろうか。

土讃線のサボの地色は、朱色となっている。

再び高松まで戻ってくると、急行うわじま11号の姿あり。
15:19に高松を発ち、宇和島には21:14に到着するので、行程291km・約6時間の旅となる。

こういう長距離列車が一日に何本も出ていたのは、国鉄ならではのダイヤだといえよう。

手許のネガを見るとこの後のコマは、電化直後の伯備線用に入線した岡山駅の電車特急やくも13号(17:10発)となっている。
全く宇高連絡船の様子は撮影していないようだ。今思えば惜しいことをした。
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Comment
2010.06.27 Sun 09:58 |
キハ26の窓の形状は所謂「バス窓」と呼ばれているものですね。日本の鉄道車両でバス窓が現存しているものはあるのでしょうか?
紀州鉄道のディーゼルカーはついこの間引退してしまい、乗ることは叶わなかったのですが・・・。
- #bYLHBN/g
- 淡島八景
- URL
- Edit
2010.06.27 Sun 13:41 |
まさに多度「津」ですね。
県庁所在地ではなく、こんぴらさんとの中間、善通寺に連隊がおかれたのも理解できます。
82年の配置表をつらつらと眺めておりましたら、キハ26 17は四国唯一のキハ26一次型のようです。1950年代の夢の果てだったのでしょうか。
2010.06.28 Mon 07:19 | *淡島八景さん おはようございます
バス窓で現役となると、難しいかもしれませんね。昔は関東鉄道あたりにはゴロゴロいてましたが。
2010.06.28 Mon 07:22 | *なにわさん おはようございます
このときは、珍しい車輌だと思って撮影しましたが、「キハ26 17は四国唯一のキハ26一次型」とのこと・・・貴重な情報ありがとうございます。
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